2019年9月29日日曜日

藤原氏の悪行

ネットより

日本に中国に摸した律令制度を取り入れ、国家という形を確立した藤原鎌足藤原不比等
それは既存の日本の勢力とドロドロの戦いのうえになりたっています。
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古代国家は、仏教を積極的に取り入れることで国づくりを推し進めた。 
当然、天皇がその仏教導入の先頭にいたわけで、当時の天皇は神道の保護には積極的ではなかった
だけでなく、その古来の神道のしきたりを持っていた物部氏を排斥すらした。 

様々な信仰をもった地方豪族たちのゆるやかな連合体であった当時の日本を
仏教の力と律令制度の名の下に、一元化をはかろうとした中心に藤原氏がいました。 

出自のよくわからない藤原鎌足が、どうしてこれほどまでに中枢の権力を握ることができたのか
関裕二さんは、鎌足は百済の王:豊璋であったといっています。 
そんな馬鹿なと思いつつも、その論拠にはとても説得力があります。
扶余豊璋
扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、生没年不詳)は、百済最後の王である義慈王(641年 - 660年)の王子。
百済王子豊璋



『日本書紀』での表記は扶余豊璋もしくは徐豊璋であるが
『三国史記』では余豊璋もしくは徐豊璋、『旧唐書』では余豊もしくは徐豊である。
また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある。
(提供:ウィキペディア)

倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。
しかし、鎌足、不比等にはじまった藤原氏の支配が、歴史の底流をみるといついかなる時代をみても
どの将軍の時代であっても、いかなる天皇の時代であっても、またいかなる政権の時代であっても
脈々と続いていることがわかります。 

藤原氏は不比等の四人の子の末裔がそれぞれ、南家(藤原武智麻呂)、北家(房前)、式家(宇合)
京家(麻呂)にわかれ、互いに牽制し、覇を競いあいました。
平安時代は、藤原氏内部の権力闘争から始まったと言っていいであろう。
そして北家が勝利を収め、摂関政治がはじまるのである。(関裕二『藤原氏の正体』280頁) 

天皇を操り続け、時の政権をも常に左右する力を持った藤原氏それは現代につながるトップに責任と権限を与えない官僚制度そのものであるようにも見えます。 

一条、二条家や西園寺家、近衛家などに限らず、地方から自力で這い上がる人びとに
常に立ちはだかる勢力として根深く日本社会に存在し続けています。 

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