2019年9月29日日曜日

続き

ネット前記事より続く

中臣鎌足は朝鮮人:豊璋
藤原鎌足の肖像紙幣


















百済王子豊璋と当時の日本及び朝鮮半島の状況
鎌足についてはよく知られていても、百済王子豊璋についてはよく知らない人もいるかも知れない。
631年に、百済から人質として2人の兄弟王子、豊璋善光が日本へ送られてきていた。
人質といっても、百済と日本は同盟していたので、客分扱いである。
その兄王子の豊璋が鎌足だったのである。

藤原鎌足は豊璋










660年、唐・新羅連合軍の攻撃によって百済が滅亡した。
百済最後の王・義慈王は降伏後、死亡し、皇太子孝は行方不明となった。
百済の遺臣は、鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、日本に滞在していた
百済王子豊璋を擁立しようと、同盟国・日本に救援を要請した。天智天皇はこれを承諾した。

豊璋は百済復興のため、約30年ぶりに呼び戻された。
百済国がないのに、ここでいったん豊璋は百済王として推戴された。

663年の白村江の戦いにおける指揮官は、日本軍は阿倍比羅夫、百済遺民軍は豊璋であった。
しかし、日本・百済遺民の連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗した。
大敗する直前、部下を騙して自軍を捨ててこっそりと手勢数名だけで抜け出した豊璋は
行方知れずとなったとか、高句麗へ逃げたとか書かれているが、実際には、救援に来た日本の水軍と
合流し、密かに日本へ戻ってきていた。
豊璋は正体を隠すために、天智天皇から藤原鎌足の名をもらって帰化した

一方、豊璋の弟善光は、行方不明になったことになっている兄の代わりに百済の王統を継ぎ
百済の王統を表す、「百済王」という特別な姓氏を受けて日本に帰化した。
また、二人の王子の他、国を失った百済王族たちが、一族配下の数千名(あるいは一万名とも)
を従えて集団で日本へ亡命してきた。
(提供:成長するため、正しい地図を手にしよう)


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