2022年7月12日火曜日

そうだそうだ一

現代ビジネスさん、またまた、ありがとう→最初は警察発表に基づき、「ある宗教団体」と新聞やテレビは報じていたが、一向に名前は出さないままだった。その一方で、事件発生翌日の9日土曜日から雑誌系のメディアなどが、「統一教会」の名前を報じ始めた。その時点で海外メディアもすでに統一教会の名前を挙げていた。  しかし日本のテレビや新聞は参議院選挙の投票日である翌10日になっても宗教団体の名前を報じないまま、11日に統一教会が都内で記者会見を開いて初めて、統一教会であるとその名前を報道するようになったのだ。  もし、統一教会が会見をしなければきっと今でもテレビは「ある宗教団体」と報じていただろう。テレビも新聞も統一教会の会見後に一斉に実名を報じることとなったのは、ある意味かなり情けない状況ではないのか。  なぜなら「私たちは会見などの発表がないと宗教団体の名前すら書けない状態です」と世界に恥を晒してしまったようなものだからだ。これでは「日本のテレビ・新聞は発表ジャーナリズムだ」と批判されても文句は言えないだろう。  しかも、宗教団体の名前を解禁する時期がまた、あまりにもまずい。「選挙が終わった翌日」にテレビ・新聞が一斉に「名前解禁」ということでは、「やはりテレビ・新聞は政治に忖度をしていたのだな」という不信感を多くの人に抱かせてしまうことにつながる。  本来、メディアとしては、「自社の取材で情報の裏が取れたら、報道すべき」だ。そして、山上容疑者の周辺を聞き込み取材すれば、統一教会と山上容疑者の関係についての証言を近隣住民や友人から聞き出すのはさほど難しいことではなかったはずだと私の経験からは思う。  となればたとえ捜査当局が「山上容疑者が統一教会の名前を供述している」ということは取材に対して認めなかったとしても、「山上容疑者が恨んでいた宗教団体は、統一教会だ」くらいまではすぐに報道できたはずだと思う。  なぜそれをできたのは雑誌系のメディアだけで、テレビや新聞にはできなかったのか。なぜテレビや新聞は記者会見を結局待ってしまったのか、が私もテレビ局OBとして残念でならないのだ。 報道の違いが生まれた背景  やはりこの違いが生まれた背景には「記者クラブ制」の問題があると言わざるを得ない。  乱暴に分けると、報道機関には「記者クラブに所属して、官公庁などの発表をもとに取材をするメディア」と「現場などで聞き込みをしたり、関係者から証言を得て取材をするメディア」があると思う。前者の代表格がテレビや新聞で、後者の代表格が雑誌と考えると分かりやすい。  無論、記者クラブを拠点とするメディアも現場で聞き込みをしたり関係者から証言を得て報道するのだが、記者クラブに所属しているので、捜査当局などとの関係性によっていろいろ制約が生じることがある。  「記者クラブ出入り禁止」などにされて、取材機会を失う危険性があるので、当局の意向に面と向かっては背きにくい側面があるのだ。私もオウム真理教裁判などを担当していた社会部記者時代に、テレビ朝日が報道内容をめぐって司法記者クラブから出入り禁止にされたのを経験した。  しばらくの間裁判所の近くにキャンピングカーを停めて、その中で原稿を書いた記憶がある。会見やレクにも参加することが許されず、辛い取材活動を余儀なくされた。このように記者クラブ制は当局に情報をコントロールされやすい危険性を孕んでいると言うことができるだろう。 「忖度」」が働いていた?  先ほども述べたように、周辺取材をすれば簡単にわかるはずの統一教会の名前を、今回テレビや新聞が「選挙終了まで書けなかった背景」には、記者クラブ制に起因する…もっと言ってしまえば警察の記者クラブあるいは政治部が加盟する記者クラブに起因する「何がしかの忖度」が働いていたのではないかと推測されてしまうのだ。  さらに今回、統一教会は選挙翌日に会見を行うにあたって、参加者を大手の新聞とテレビに限定したようだ。これはある意味、「大手のテレビや新聞は御しやすい」と思われてしまったからではないか。だとしたら、ずいぶんと舐められたものである。  結果としてやはり会見で統一教会が発表したことを、先方の思惑どおりそのまま垂れ流すような感じになってしまっていて、利用されているかのようだ。そういう批判の声もSNS上などに見られているわけで、ここでもテレビや新聞はやはりメディアとしての信頼度を下げてしまっているようで悲しい。  私の経験からすると、少なくともテレビにおいては昔はこうではなかった。  本来テレビの取材体制は多層構造になっていて、いくつもの顔を持っている。クラブ詰めの「記者」と「報道ディレクター」がいること。そして、地域ごとに会社が別々になっていること。あとは「ニュース番組」と「ワイドショー」があること。これらをうまく使えば、記者クラブ制の弊害からうまく逃れることも可能なのだ。  実際我々はかつて長年に渡り、そうした「幾つもの顔」を「コウモリ」のように使い分けて、当局の縛りをうまくかいくぐってきた。  例えば今回の事件でいえば、安倍元首相殺害現場近くの関西の放送局の記者が警察の発表などを取材しているのだとすれば、東京の放送局から現地に派遣されたニュース番組の報道ディレクターたちが、山上容疑者の関係先を徹底的に聞き込んで、取材して、「統一教会の名前」を含めて、その証言インタビューを放送してしまえばよかったのだ。  そのことで仮に関西の記者が当局から怒られても、別会社なのだから「東京の番組が勝手にやってしまいました。困ったもんですなあ」とでも言っておけばいいのだ。  報道番組で放送しにくければ、ワイドショーで放送してしまって「ワイドショーのせいです」とシラを切ってあとで怒られればいい。かつてはそんな度胸の座った人たちがテレビ局にもたくさんいた。 誰も腹をくくらなかった  ではなぜそうできなかったのか? というと、たぶん誰も「腹をくくらなかった」からだ。視聴者に対して、「裏取りができた宗教団体の名前を明らかにしなければ」という報道機関としての使命よりも、何がしかの「忖度」が先に立ってしまったのではないかと考えざるを得ない。  しかし、考えても見てほしい。いくら日本のテレビや新聞が名前を隠したとしても、雑誌やwebニュースなどで名前が明かされることになる。  そして海外メディアの報道内容も、日本で簡単に見られる。  むしろ国内のテレビの報道内容が信じられないから、海外のテレビニュースなどをチェックしているという人は、コロナ禍あたりから私の周りにも結構出てきていて、増えている印象すらある。 信頼回復のラストチャンス  ネットに戸は立てられない。  テレビや新聞がいまさら何らかの配慮で情報を意図的に隠しても、ほぼ何の意味もない。ただ、「テレビと新聞だけなぜか情報を隠している」という不自然な状況となってしまい、人々のテレビ・新聞に対する信頼感がさらに一層低下するだけだ。  そのことにいい加減、テレビ・新聞関係者は気づいても良い頃だと思う。そしてそろそろ気がつかないと、信頼回復のラストチャンスを逃しかねないのでは、と私は心配でならない。  このような状況が今後も続くのだとすれば、まさにそれは「報道機関としての『自殺行為』」といえるだろう。 鎮目 博道(テレビプロデューサー・ライター)

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