2022年8月8日月曜日

安倍は

岸じじいの生き写し→1960年の安保条約改定を強行したことでも知られる岸信介元首相(1896~1987)は、戦前、農商務省(後に商工省)で超国家主義的“革新官僚”として頭角を現しました。岸は1936~39年まで、日本のかいらい国家「満州国」において、東条英機が関東軍憲兵司令官、参謀長を務めたもとで、関東軍と密接な連携のもとに経済・産業の実質的な最高責任者として権勢をふるい、「産業開発5カ年計画」による鮎川財閥の導入などによって資源の略奪をはじめ植民地支配をほしいままにしました。“2キ3スケ”(東条英機、星野直樹、岸信介、鮎川義介、松岡洋右)の名で恐れられたのも、このころです。  この時期、「満州」経済は裏でアヘン取引によってばく大な利益をあげていて、そこからの巨額の資金が岸信介氏を介して東条にわたり、それが東条が首相になる工作に使われたとの説もあります(原彬久『岸信介―権勢の政治家』〈岩波新書〉、太田尚樹『満州裏史―甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』〈講談社〉など。  岸はその後、41年、東条内閣の成立とともに、東条がもっとも頼りにする盟友の一人として商工大臣、軍需次官(大臣は東条が兼務)をつとめ、侵略戦争遂行のための国家総動員体制、国家統制による軍需生産増進、“大東亜共栄圈”の自給自足体制確立など戦時経済体制推進の施策をすすめます。  ですから、岸が戦後A級戦犯容疑者として戦争責任を問われたのはごく自然のことでした。1945年9月、岸は笹川良一、児玉誉士夫らとともに東京・巣鴨拘置所に収監されましたが、アメリカの対日占領政策の転換とともに48年12月に釈放されました。  岸はみずからの戦前・戦中の役割を反省するどころか、それを正しい行為とみなす世界観、価値観を終生かたくなにもちつづけました。戦犯容疑者として収監されるとき、恩師から「自決」を促す短歌をおくられたさいに、返歌に「名にかへてこのみいくさ(聖戦)の正しさを来世までも語りのこさむ」と書いています。(原彬久、前掲書)。(足) 〔2007・9・15(土)〕

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