2022年8月9日火曜日

やはり

秦の始皇帝は、イスラエル人の可能性高そうやな。 秦の始皇帝が日本に来て全国に広めたもののうちの一つが神社。それが原始キリスト教。なので、日本の神社は本物のキリスト教、実は。カトリックとかエホバとか、あんなもんは全部偽物で、だから、 日本人が神社に初詣とかに行くのは、当たり前のこと。安倍はその神社を乗っ取った。それは完全に、神に背いたと、いうこと。 イスラエルの失われた12士族!秦の始皇帝→ 16/11/09 秦の始皇帝の陵墓を守護するために周囲に埋められた兵馬俑が、遠く離れた古代ギリシャの影響を受けたとの説が浮上していると、最近、イギリスBBC(電子版)が伝えた。 多くの王国に分かれていた中国を初めて統一し、氏族を基にした封建制に終止符を打った秦の始皇帝は、中国史の中でひときわ大きく輝いている。始皇帝が建設した万里の長城は、その強大な権力の象徴でもあるのです。 兵馬俑とは死者を守るために共に埋められる人形のことであるが、その核心を揺るがす見解が示されたのです。これは、外国の研究者だけが発表したものではなく、中国の研究者によっても同じ趣旨の見解が出されました。 「秦始皇帝陵博物院」の李秀珍研究員はBBCに「シルクロードが開かれる前に始皇帝時代の中国と西洋の間で密接な接触があった証拠が見つかった」と証言した。 ウィーン大学の教授も最近発見された像の特徴から、「ギリシャの彫刻家が中国人に技術指導したかもしれない」と指摘したのです。 中国・西北大学の段清波教授は、長らく始皇帝陵園の発掘の指揮を執ってきた研究者です。段教授の論は、明快かつ驚くべきものでした。 「兵馬俑は外来文化、特にギリシャやペルシャなど西方の彫像文化を受け入れたものでしょう」 「兵馬俑のような、等身大でリアルな造形の俑(副葬品の人形)はそれ以前には中国ではまったく出土しておらず、その後もない。まさに空前絶後の遺跡だ」と語っているのです。 兵馬俑が作られる約100年前の俑の大きさは20センチ足らずでシンプルな造形です。こうした人形が一般的だったにもかかわらず、突然、始皇帝の兵馬俑において「巨大化」し、「写実的」になったのです。 兵馬俑の80年後、前漢時代の皇帝墓でみつかった俑は大きさ50センチと小さく、顔や肉体の造形も簡略化されています。わら人形のような形でリアル感はないのです。こうした俑は前漢の墓以降、見られなくなったのです。 中国の歴史上、突然変異のように現れ、消えた兵馬俑・・・・・。それは一体何を意味するのか。 始皇帝に先立つ紀元前4世紀、世界で最も進んだ彫像文化を育んでいたのは、地中海沿岸、とりわけギリシャ文明でした。その文化は始皇帝の100年前、アレクサンドロス大王の東方遠征によって、アフガニスタンなど中央アジア一帯にまで伝播したことが分かっています。そこからさらに中国の最も西にあった秦まで伝わり、始皇帝はその彫像を目の当たりにして、自分の墓に取り入れたというのです。 段教授は論をさらに進めます。 「兵馬俑だけではありません。例えば、始皇帝陵から出土した青銅製の馬車、銅車馬(銅馬車のこと)。青銅で馬車を作る文化はそれまでの中国にはなく西方由来です。始皇帝が各地を巡行した 際に、石に文字を刻んだ「刻石」を残しましたが、それも中国のオリジナルな文化ではなく、西方から学んだものでしょう。 こうした例は、実に枚挙にいとまがありません。ある歴史書の中には、始皇帝が全国を統一したその年、秦の西側の国境で「大きな人」に出会ったという記載もあるというのです。 世界史の教科書では、シルクロードは、秦のあと、前漢の時代に張騫の西域遠征によって開通したと学んだはずだが、段教授は言います。 「近年の考古学の成果は、それよりもはるか以前から東西交流が盛んだったことを明らかにしています。鉄器、黄金、小麦など様々なものが西方からもたらされ、中国に広まりました。秦は戦国諸国の中で西のはずれにあり、諸国から一段低いものと見なされていましたが、逆に外来文化の伝播という面でいうと真っ先に西方文化が伝わる情報の先進地だったのです」。 さらに段教授曰く、 「私は、始皇帝が全国を統一後に行った数多くの政策、政治体制や法律、文字や度量衡の統一、道路交通網の整備などは、アレクサンドロス大王が征服し、かつ踏襲したペルシャ帝国から学んだものだと考えています」と総括したのでした。 さて、それでは秦の始皇帝はどこの民族だったのでしょうか。 昔、中国にはペルシャ人が何十万人もいた地域があると伝えている。シルクロードを介してペルシャやギリシャの人々や文化が入って来ても不思議ではない。 その流入の地であった秦の国に最先端技術(優れた製鉄技術、牛耕技術)を持った渡来人(西アジアの人々、イスラエル移民と想定)が大量に流入し、新しい文化を持った国を造り上げたとしても不思議ではない。 現に、秦の始皇帝の実の父は荘襄王ではなく“呂不韋(ロフィー)”と言われている。この名前は中国人ではなく外国人の名前を中国語で表記したと思えるのです。 この時代の秦の国で起きた出来事は、20世紀のアメリカ大陸で起こったアメリカ建国に類似しているのではないかと思っています。アメリカ合衆国の歴史はイギリスやオランダなどの西欧人が宗教弾圧を逃れて、大西洋を渡ってきた渡来人(移民)によって建国されたのです。そして取り分け影響力の強いイギリスが歴史の主役となったのでした。 秦の始皇帝も同様の経緯で建国されたのではないかと推測しています。そして、秦の始皇帝に不老不死の仙薬を求められて、日本に探しに来た徐福は数千人の集団とともにその後、日本に永住したのです。そのような往来が昔からあったのです。 そして、秦の滅亡を機に、秦の渡来人は迫害を避けて最終的に朝鮮半島へ移住し、日本へ渡来する直前まで朝鮮半島に寄留、今度は韓流文化の影響を受けることになりますが「魏志」において「辰韓人(秦韓人)」と記載されているのです。 その秦の渡来人は日本に渡ってきて、「秦氏」と名乗ったのです。 秦氏は大陸から渡来してきた技術集団だったのです。ただし、漢民族(中国人)ではありません。 もっと遠くからの渡来人です。泰氏は、いろいろな分野において、他の渡来人とはまったく性格を異にする、いうならば、まことに奇妙な渡来人だったのです。 秦氏の渡来について、『日本書紀』 巻第10「応神紀」に記載があります。 「十四年二月春、百済王が衣縫工女(きぬぬいおみな)を奉った。・・・・・その年、弓月君(これが泰氏)が百済からやってきた。奏上して、『私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています』といった。それで速やかに新羅に行って、弓月の民を救出した」と記しています。 ここで言う「弓月の民」とは西アジア地域につながり、最終的にはイスラエルのダビデ王族の血統を引き継ぐ一族に辿り着く可能性さえあるというのです。 ご参考だが、イラン系白人のサカ族は「月氏」と称されていたのです。 この秦氏(はたし)が大陸から携えてきた文化は極めて高度なものであり、泰氏はその財力と土木技術を活かして灌漑や大規模な土木工事、古墳の造営に着手し、湿地で洪水の多かった山背国(現在の京都)の治水事業や地域の開発と発展に大きく貢献しました。嵐山にある渡月橋の葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれている堰(せき)はこの泰氏が築いたものです。 そして、京都・平安京の造営は泰氏がスポンサーであり、設計、施工も行った歴史的な一大土木工事だったのです。また、八幡神社、伏見稲荷神社や広隆寺をはじめとする多くの神社を全国に建立しました。養蚕や機織り、酒造も手掛け、楽器や紙といったさまざまな文化・芸術に関する教養も日本にもたらし、飛鳥文化における中心的な役割も担ったのです。 今年の8月、読売新聞の奈良版に、「奈良の都にペルシャ人の役人がいた」と報じられていました。 奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかったというのです。 国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果だと書かれていました。木簡は、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とのことでした。 このように、古来より日本にも多くの渡来人がやって来て、新しい文化を開花させて来たのは間違いがないと思っています。

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