2025年8月20日水曜日

戦争責任、日独墺比較

二つ目の記事は、外国からの目線。これを読むと、島国日本は いかに世間知らずで生きてきたのか?と。世間知らずだからこそ、再び戦争に突入しようとする政治家が当選したり、 アメリカに守ってもらいたいから米軍による日本内におけるミサイル基地が必要などという若者が、出てきたりするのかな?と。 →第二次世界大戦後の反省や戦争責任の取り方について、常に比較されるのが日本とドイツです。一般論としてドイツは潔く悔悟して罪を認めたけれど日本はどうも歯切れが悪い、というものがあります。こうした戦争責任の日独比較の本は90年代以降続々と出版されてきましたが、外国人による出版物は少ないようで(イアン・ブルマ氏の『戦争の記憶―日本人とドイツ人』くらいしか寡聞にして知りません)、戦後の日独両国に深くコミットしていたアメリカの論者からの声は聞いたことがありませんでした。そうした意味でボストン大学教授による本書は貴重です。 ●日独比較にとどまらずオーストリアも俎上に載せたユニークさ。 特筆すべきはそもそも常に「日独」比較しかなされていなかったこの議論に「陰の」加害者オーストリアを含めて、「日独墺」という三つ巴の比較考量がなされた点でしょう。 本書は第二次大戦の加害者側に位置づけられた日独墺という三つの国の、それぞれの贖罪の歴史を克明に分析するものです。著者の目的は「加害国」と「被害国」の和解のメカニズムを探ることでありますから、いちおう贖罪済みと見なされるドイツとオーストリアよりも、当然のことながら日本の分析にさかれるページが多くなります。そして、贖罪済みであるがゆえにドイツとオーストリアのケースは起承転結の全貌が完了形として呈示されているので、著者の分析手腕の冴えとあいまって小気味良く読むことができます。特に、日本ではあまり知られていないオーストリアのケースは、その複雑な紆余曲折が「往生際の悪い小悪漢」の悔悛物語としてなかなか面白くもあります。 戦争責任の認知と贖罪のメリハリとスピードにおいて日独比較は興味深く、本書の中核はその対比ですが、著者は「道義的」価値判断を表に出すことなく、きわめてプラグマティック(実利的)な立場を取っているように見えます。国際政治学者として当然の立場だとはいえましょう。むしろ彼の分析手法からすると、道徳論・正義論にはまりこむと外交問題の本質から遠ざかってしまうといっているようです。彼は分析のアプローチとして「歴史決定論」「道具主義=功利論(役に立つか・使えるか)」「文化決定論」の三つを駆使します。著者の価値判断は、国際関係において「妥協と折り合いこそが善である」という外交の王道を推すところにあります。 あいかわらず中国・韓国とは複雑な外交関係を続ける我が国の国民にとっては、おおいに思考の補助になる本だと思います。俗論や感情に引きずられた議論の場、あるいは大義や正義をふりかざす場、などから位相を異にした展望が開けるかもしれません。上でも述べたようにオーストリアという存在を中間的存在として挟んだのも面白い仕掛けです。ケンブリッジ出版局の学術書ですから、分析手法にこだわりながらの国際政治論にはアカデミックな面がつきまといますが、テーマがテーマだけに無味乾燥な論文に終わることなく、すぐさま国際政治史のエキサイティングな物語に引き込まれます。 ●ドイツ――模範的な悔悟者。 質量共に他国を凌駕するほどの戦争犯罪に手を染めた国はドイツ以外になく、世界の市民権を再取得するためには「模範的な悔悟者」となるべく運命づけられていたといえます。同時に悔悟の成功によって、ドイツほど爾後世界的評価を高めた国もありません。「極悪人が見事に悔い改め、立派に更正して社会復帰した」という美談が成立したのです。戦後すみやかに経済大国、技術大国というブランドを得たほか、「悔悟することのできる力」という自負心が自分たちのプライドになり、他国もこれを評価しているという恵まれた状況にあります。 ただそこへ辿り着く経路はストレートではありません。日本人の一定数がそうであるように、ドイツのなかにも加害者意識よりも被害者意識(米英軍による一般都市爆撃、ソ連軍による蛮行など)を優先させる人々がおり、ナチスが犯した残虐行為など知らなかったという主張(ホロコーストの全貌を国民が知ったのは敗戦以降)があり、戦争を煽動した連中への支持・同情が残っていたのです。つまり1945年の敗戦から1960年までドイツは被害者としての歴史物語のなかに浸っていたのであって、潔く罪を認めるドイツというイメージは60年~70年代の歴史的事実認識行動のなかで萌芽しました。それはフランスや日本と並ぶ学生運動勃興の時期であり、良心の呵責、前世代の批判、歴史の見直しが若者たちの武器となり、これが国内のムードを変えたともいえます。そして1985年のワイツゼッカー大統領(当時)の歴史的演説がドイツの悔悟者としての基本姿勢を定めました。「謝罪する勇気を持った国」というイメージを前面に打ち出し、国内右派・左派ともに罪を認め悔悟する者としてのドイツ像を世界が受諾したのです。 時間の流れとしてはこうですが、ドイツが(日本に比べ)罪を認めやすい環境にあったことも忘れてはなりません。ドイツの戦争犯罪というのは1939年のポーランド侵攻から敗戦の1945年までという6年間限定の罪であり、責任者はヒトラーでありナチスであるとピンポイントで指さすことが容易です。これに対して日本の大陸侵食には日清戦争から始まるおよそ50年間の歴史があり、この間の植民地支配のために殺戮をふくむ暴力的支配を続けてきたと著者は見なします。ドイツの暴力が点としての一瞬の暴発ならば、日本のそれは半世紀以上だらだらと続いた線であるといえるのです。ヒトラーという個人とナチスという政党を糾弾し、「あんな政治家・政党をのさばらせた我々が悪かった」と謝罪すればそれですむ。しかし日本の場合は軍国主義への道、大陸侵略・太平洋戦争への道程は長く、それを主導しそこに加担した人々は無数にいました。東条英機一人を糾弾すればそれで済むというものではなかったのです。また日本の場合は、ドイツのように特定民族を計画的に殺してゆくという民族浄化プログラムがあったわけではなく、無計画性の暴発的殺戮だったという違いもありました。 ●オーストリア――道草をくった悔悟者。 1938年のドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)以降、敗戦まで(否、それ以降も)ドイツ以上にナチスを崇拝してきたオーストリア。暗い過去を隠し続けてきたオーストリア(映画「サウンド・オブ・ミュージック」でやんわりと暴露された印象はあるものの)は、ようやく90年代初期から態度を改め始めました。なぜ同国は当初罪を認めようとしなかったのか、そしてなぜその後急変したのでしょう? 潔白感のあるオーストリアですが、ナチスに対する入れ込み方は異様でした。第三帝国内人口構成としてオーストリア人は8%しか占めないのに、ナチス親衛隊の13%、強制収容所職員の40%、収容所所長の70%がオーストリア人だったのです(尤も、ヒトラー自身がオーストリア出身ということを考えれば驚くことはないのかもしれませんが)。これだけのコミットをしていながら戦後、戦争犯罪の罪の意識が薄かったのは、同国が1938年までは独立国だったもののアンシュルス以降は独立国ではなかった、つまりナチスが戦争犯罪をしまくっていた時期にオーストリアは存在していなかったという認識(というか弁解)があります。オーストリアはドイツの犠牲となって利用されてしまった、という説話です。しかしこれはうわべだけ、かつ苦し紛れの説話であり、暗い真相としては、オーストリアには伝統的に根深い反ユダヤ主義があって、ユダヤ人虐待を心底反省していない人々が相当数いたという点にあります。歴史的には反ユダヤ主義はドイツにおいてではなく、ハプスブルク帝国において熾烈だったのです。迫害の主要舞台はベルリンやミュンヘンではなく、ハプスブルク帝国絶頂期のウィーンでありブダペストだった。戦後になってからも「ユダヤ人の不運は自業自得」といって憚らない人々が少なくありませんでした。 さらに敗戦後の社会状況はドイツもオーストリアも似たり寄ったりでしたが、連合国側がオーストリアに「ナチスの最初の被害国」というお墨付きを与えた影響は大でした。オーストリアの無実を装う官製説話はこのお守りを基にして作られていったのです。 1990年代が始まるとこの物語に根本的な変化が生じます。断固として罪を認めぬ立場から、一転してホロコースト共犯者の立場を認めたのです。1993年にイスラエルを訪れたヴラニツキー首相がオーストリア国家の罪を認める演説を行いました。そして国民の81%がこの演説に賛同したのです。ナチスの犠牲となったユダヤ人たちに対する補償支払いも始めます。居場所さえわかれば海外移住者に対しても補償がなされました。ナチス美化のプロパガンダは禁止されます。2005年にはホロコーストの存在を否定していた英国人歴史家をウィーン旅行中に逮捕し3年の懲役を課しました。何がこのような変化を呼び起こしたのでしょうか? 複雑な背景は本書にあたってもらうとして、分かりやすい理由の一つには、同国の悲願であったEUへの加盟というインセンティブがあったでしょう。 ドイツ国民とオーストリア国民の戦時体験は非常に似通っていました。であるのに積極的に贖罪することをきめた判断時期がおおいに違う。オーストリアは賠償金を払うのが嫌で口をつぐみましたが、ドイツも積極的に賠償したいとは思っていなかったけれど、役柄が大きすぎてオーストリアのような小回りはできませんでした。むしろ堂々と「悔悟できるドイツ」を売り込んだほうが特だという実利的判断がありました。結局遅ればせながらオーストリアが採択した道筋は、きわめて功利的な損得判断から生まれものだと著者は判断します。 ●日本――頑固者の手本か? 広島と長崎で核兵器の犠牲になった日本なのに他国に強いた犠牲は忘れたのか、と見られることが多いと著者はいいます。日本は犠牲者であって加害者ではない、というのが官製と民間の歴史物語になっており、そうした悔悟せぬ頑固なスタンスが、ドイツが享受するに至った評判とは逆に、アジア近隣諸国から危険視され、ときには同盟国アメリカも懸念することがあります。ドイツを模範的な悔悟者とするならば、日本は「模範的な頑固者」と著者は表現します。 アジアにおける植民地政策と戦争の惨禍の責任を公的に認めない立場は、最近の歴史修正主義者の台頭もあって、悔恨の情を示す官製歴史というものが成立しにくくなっています。 敵国民との直接の戦闘、ないしは被害者の惨状を日本の一般市民は目撃もしていなければ巻き込まれてもいない(唯一の例外が沖縄)という点が、ドイツ市民の戦争体験と大きく異なります。そうした根本的な体験の相違ゆえに、日本人一般に「自分たちが加害者だった」という認識は希薄です。その態度の相違をさらに強めた地勢的相違もあります。ドイツは蹂躙したフランス、ベルギー、ポーランドなどと地続きでしたから、敗戦早々に昨日までの敵国から憤怒のまなざしで睨まれる。日本はというとかつての敵国はすべて海の向こう。ドイツは四面楚歌の状況にあり、悔悛の態度を示さないと以後ヨーロッパ社会では生きていけないという切羽詰まった状態にありました。 さらにわかりやすい事実は、敗戦後のドイツが4か国(英米仏露)によって占領されていたのに対し、日本は米国による単独占領だったという違い。ドイツの直接の被害者であるフランスとロシアの目がギラギラと光っていたわけですが、日本はアメリカとだけうまくやっていけばそれで100点満点、という単純な状況だったのです。 ●悔悟までのねじれた道程と和解のための戦略。 冒頭でも述べましたが、著者は国際政治学者としてあくまでプラグマティックな道をさぐります。歴史的事実、あるいは国際的に了解された事実に合致しない官製説話をめぐって論争が生じた場合、政府はどう反応すべきかを考えます。第1の方法はダメージコントロール。物語の内容は変更せず、敵意をやわらげるための融和的ジェスチャーを見せます。50年代から80年代にかけて日本政府が取った方策で、曖昧な謝罪に経済援助を絡めていきました。但し相手国の経済成長が日本より速くなっている現在、この方策の有効性は逓減しているのではないでしょうか。第2の方法は積極的に和解を求めること。ドイツは先ず西欧諸国に対し、ついでイスラエル、ユダヤ人社会、東欧に対し順々に行っていきました。これがあったために、2007年にポーランドがドイツを非難した際、フランスなどがドイツ擁護に回ってくれたのだそうです。

0 件のコメント:

コメントを投稿