2025年8月13日水曜日

父島(小笠原)事件

この文章の最後の方、筆者は 現場にいた土屋さんが言う表現に対し問題提起をしているが、 事実を事実として受け止める意向に欠けていると、わたしは思う。 何を言おうが、戦争を自ら仕掛けたのはこの日本だ。 アメリカ側の裁判だから、アメリカに優位に働いたとでも いいたげだが、万一それがあったとしても、 まずは自らの犯した罪、過ちを認めること。 これが自分に向き合うと、いうことだ。 そして、日本が戦争を仕掛けなければ、原爆は落ちていなかった。何を言おうが、日本人がいくら日本をかばおうが、 それが真実だ。 → 日時:2008年10月25日 場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス はじめに 父島事件とは第二次大戦末期、東京都小笠村の父島で起こった米国捕虜将校らの一連の処刑事件。BC級戦犯裁判の一つとして知られるが、本日の報告では処刑事件のうちの一件に立ち会ったというある少尉(正確には少尉候補生)の目撃証言の内容を伝えたい。 同候補生は日弁連元会長で、戦後補償裁判の一つで現在係争中の重慶大爆撃訴訟の弁護団長を務めている土屋公献さん(85歳)。この事件の青年・土屋に与えた影響は大きく、弁護士活動の原点になった。 「父島へ」 旧制静岡高校時代の1943年11月に学徒出陣し、訓練を経て1945年1月に東京から南約1300キロの小笠原諸島・父島の第二魚雷艇隊に配属された。ちなみに同島の南約200〜300キロにある硫黄島に米軍が上陸したのは同年2月、翌月に同島の日本軍守備隊は全滅している。 父島事件については米軍の捕虜パイロットを追跡調査した『父親たちの星条旗』の著者で知られるジェームズ・ブラッドレーの二冊目の著作『FLY BOYS』に詳しく書かれている。あいにくこの著作は邦訳されていない。 著書の内容をちょっと紹介したい。父島周辺で墜落し捕虜となった米軍パイロット8人のその後の運命を日米双方の関係者の証言をもとにまとめたものだ。海上に着水したため、米潜水艦に救出されたジョージ・ブッシュ(米元大統領)も出てくる異色ドキュメントである。8人の中にウオーレン・アール・ボーンという捕虜将校がたびたび登場する。土屋さんが会話を交わすことになったのはこのボーンだった。 「捕虜との一週間」 捕虜のパイロットは父島に配置された部隊ごとに一人ずつ預かったという。魚雷艇隊ではボーンを預かった。処刑までの期間は少なくとも一週間はあった。この間、つたない英語でボーンと会話を交わす機会があった。ボーンは海軍中尉で22歳。土屋さんは少尉候補生で21歳。当時、日本は数えで年齢を言う習慣があったから、ボーンには「The same age」(同い年だね)と言ったことを覚えている、と土屋さんは語っている。 処刑当日(ブラッドレーの著書によると、3月17日)、土屋さんは当直将校だった。ボーンの目隠しをし、処刑場所に連れていくのも土屋さんの任務。既に処刑されることを覚悟しているとみえて、騒がず、わめかず、従容として処刑場所に臨んだ姿が忘れられない。「母一人、子一人」「国(米国)では母が首を長くして待っている」。土屋さんはボーンとの会話の中でいまでも脳裏から離れない言葉だと話した。こういう人間をむざむざと処刑するのかと思ったという。 「戦犯容疑と紙一重」 土屋さんは当初、捕虜の首を切ることを命令されていた。土屋さんは学生時代、剣道をしていて二段だった。上官はそれを知っていてそういう命令が出ていた。軍隊では上官の命令には逆らえない。ところがその後、学徒出陣組の中に四段のいることが分かり、彼がボーンの首をはねた。戦争が終わり、彼は戦犯容疑に問われ、逃げ切れずに郷里で自殺した。土屋さんはもしあのとき、当初の命令通り自分が切っていたら、自身が殺人容疑の戦犯になっていた。土屋さんは父島事件の真相の一端を以上のように語った。 実際、戦場とはむごく、愚かなもの。そういう現実を目の当たりにしたことが、戦争を繰り返してはいけないという思いにつながり、弁護士への道を歩むことになったと土屋さんは締めくくった。 「記録と表現」 土屋さんの証言から考えなければならない点がいくつか挙げられるように思う。父島事件は処刑した捕虜の人肉食事件にすり替えられ、事の真相があいまいにされてきたきらいがある。例えば、秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う(下)』(文春文庫)の第32章「人肉事件の父島から生還したブッシュ」で、秦氏は「殺害したあと、ボーンの肉や内臓を摘出して死体を損壊」との米軍事法廷の起訴状を引用しながら、「人肉食への言及はないが、関係者の回想によると…」とし、人肉食に結びつけようとする文脈でこの部分は構成されている。 土屋さんの証言によると、ボーンの殺害された日、土屋さんは当直将校で、その深夜、飢えに苦しむ兵2人がボーンの遺体を掘り起こし食べようとするのを戒めており、またボーンの首をはねた場所は「砂浜」(秦氏)でなく、米軍の砲弾で穴の開いた土の上。ボーンの肉を食ったというのは事実に反する、と土屋さんの語気は鋭かった。 今後の私の課題の一つは、父島事件の戦犯裁判は米海軍のグアム軍事法廷で開かれており、この記録をあたる必要がある。しかし戦勝国が敗戦国を裁いた戦犯裁判である以上、判決が必ずしも公正な裁きを反映しているとは限らない。 土屋さんの証言には、記録と表現の上で考えなければならない問題があることを提起していると私は受け止めている。しかし、土屋さんの証言によって、事件の真相の一端が明らかにされたように思う。 以上をもって、土屋さんから聞いた「父島事件 真相の一端」の中間報告としたい

0 件のコメント:

コメントを投稿