会の名称「全ての生命を尊ぶ」ことはいうまでもなく、 地球や地球に生きる鉱物や水蒸気や植物、動物、人間を 含む宇宙全てにおけるあらゆる魂たちと統合をし、あらゆる魂たちが 愛と自由の元活躍出来ることを目指します。
2025年9月9日火曜日
日本と台湾、蒋介石と毛沢東
令和2年から3年の間の約一年、身体に無理ない範囲で、高齢者の家事介助をしていました。
数軒の担当を持った中に、90代の男性が。
その家については、清掃の仕事を。
介護保険事業所に登録をし、仕事を請け負う形。 一回に付き利用者が払う自己負担金額は300円。
事業所が受け取るのは3000円なので、差額2700円は
国民が支払っている介護保険料などから受け取ることになり、そのうち、わたしたちが受け取る額は、45分800円、プラス交通費は、車なら実費、二百円とかそんな感じ。
なので残りの二千円が、担当のケアマネとか、わたしらに
仕事ふる事業所の人間の給与とか、事業所の維持費なんかに
使用される。
あと、事業所の利益も。
利用者によっては、買い物の人も。
金額は同じ。
で、その男性は90代でした。
午前中はほぼ毎日囲碁クラブに通い、、
割とお元気そうですが、自力での掃除は難しく、、
いつも行くと、
●もうそれでいいから一緒にビデオ見よ!と、
言われて、、そういうわけにはいかないので、
トイレや台所の掃除を終えて居間の掃除をする際に、
ビデオがかかり、チョコチョコ見ながら清掃を。
おんなじビデオです、毎回。
尼崎市内のホテルで行われた、奄美大島出身の人らの食事会。男性の、米寿の時で、紫のレイを首からかけてもらい、
他の人が歌ったり、、
男性は奄美大島の加計呂麻島出身で、15で中国へ兵隊に行ったと。
家が貧乏で、戦争に勝てば中国で広い土地をもらえると聞いて。
第二次世界大戦で日本が敗戦して引き揚げる時に、
蒋介石と毛沢東が撃ち合いしているなかを帰って来たと。
日本に帰り、その後神戸に仕事に来たのだ、と。
この人と知り合い、最初わたしは加計呂麻島もしくは
奄美大島南部に住みたいと思い家を探しましたが、
空き家バンク情報で見つけた
その自分が住みたいと思った木造家屋は、羽アリ駆除の薬が床下に施してあったり、夏に集落一斉に、家の周りの溝に殺虫剤を撒くとかで、、無理だし、
第一ペット可が無い。
なので沖縄に。。
さあその、①中国内での二大政党による戦争の話をまず先に。
そして、②台湾が親日の理由などについてを。
①2025年6月記事→
20世紀の中国史を語る上で、決して避けては通れない二人の巨人、蒋介石と毛沢東。彼らは、巨大な国家の未来をその両肩に背負い、時には手を携え、そしてついには国家を二分するほどの激しい戦いを繰り広げました。なぜ彼らは協力し、そして袂を分かち、宿命のライバルとして歴史に名を刻むことになったのでしょうか。この記事では、彼らが共に歩んだ道のりと、決裂に至った根本的な原因、そして二人の人物像の違いを深く掘り下げていきます。単なる歴史の暗記ではなく、彼らの選択の背景にある思想や人間性に迫ることで、現代中国の成り立ちと、今なお続く台湾問題の根源を理解する、新たな視点を提供します。
出会いと第一次国共合作:打倒軍閥という共通目標。
彼らの関係の始まりは、意外にも「協力」でした。1924年、中国は辛亥革命後も、各地で軍閥が割拠し、内乱が続く混乱状態にありました。この状況を憂いた「中国革命の父」孫文は、中国を統一し、列強の支配から脱却するため、ソビエト連邦と手を結びます。そして、その指導のもと、息子の蒋介石が率いる「国民党」と、毛沢東らが所属する「共産党」が協力体制を築きます。これが「第一次国共合作」です。
この時点での両者の目標は、「打倒軍閥」と「反帝国主義」で一致していました。蒋介石は軍事的な才能を発揮し、軍閥を次々と打ち破る「北伐」を進めます。一方、毛沢東は農民や労働者を組織し、革命の基盤を築くことに力を注ぎました。しかし、この協力関係は、水面下で互いの思惑が渦巻く、緊張をはらんだものでした。蒋介石にとって共産党は、あくまで目的達成のための駒であり、その勢力拡大には強い警戒心を抱いていました。共産党もまた、国民党との協力は革命を成就させるための一時的な手段と考えていたのです。共通の敵がいなくなった時、彼らの対立は避けられない運命でした。
決裂と対立の激化:上海クーデターと国共内戦。
協力関係の崩壊は、あまりにも突然、そして決定的な形で訪れます。1927年4月12日、北伐の過程で上海に入城した蒋介石は、突如として共産党員に対し大規模な弾圧を開始しました。これが「上海クーデター」です。この事件により、第一次国共合作は完全に崩壊。多くの共産党員が命を落とし、毛沢東ら生き残った者たちは、農村部へと逃れることを余儀なくされます。
なぜ蒋介石はこのような強硬手段に出たのでしょうか。その背景には、共産党の急速な台頭に対する恐怖と、彼を支持する資本家たちの存在がありました。共産党が掲げるプロレタリアート独裁は、国民党の支持基盤である地主や資本家の利益と真っ向から対立します。蒋介石は、軍閥という外敵を排除した先に見える、共産党という「内なる敵」の存在を、決して容認できなかったのです。
このクーデターを境に、両者の立場は逆転します。蒋介石は南京に国民政府を樹立し、中国の支配者としての地位を固めていく一方、毛沢東は江西省の瑞金に「中華ソビエト共和国臨時中央政府」を樹立。ここから、10年にも及ぶ血みどろの「第一次国共内戦」が始まったのです。国民党軍の猛烈な包囲攻撃に対し、共産党軍は「長征」と呼ばれる苦難の戦略的撤退を敢行。この絶望的な状況下で、毛沢東は指導者としての地位を確立し、農村から都市を包囲するという独自の革命理論を築き上げていきました。
束の間の再協力:第二次国共合作と日中戦争。
泥沼の内戦を続ける両者に、再び協力の時が訪れます。皮肉にも、そのきっかけは「日本」という新たな、そしてより強大な共通の敵の出現でした。1931年の満州事変以降、日本の中国侵略が本格化する中で、蒋介石は「安内攘外(まず国内の安定を優先し、その後で外国の侵略を排除する)」という方針を掲げ、共産党の掃討を優先していました。
しかし、国民の間では「内戦を停止し、共に日本と戦うべきだ」という声が日増しに高まります。そして1936年12月、歴史を大きく動かす事件が起こります。共産党との前線にいた張学良が、督戦に訪れた蒋介石を拘束し、抗日と内戦停止を要求したのです。これが「西安事件」です。絶体絶命の蒋介石を救ったのは、意外にも宿敵である共産党でした。共産党は、抗日統一戦線の実現という大局的な見地から、蒋介石の釈放を働きかけます。この事件を機に内戦は停止され、1937年に日中戦争が全面化すると、「第二次国共合作」が成立。両者は再び、日本の侵略に立ち向かうことになったのです。
しかし、これもまた仮初めの協力に過ぎませんでした。蒋介石率いる国民党軍が正面から日本軍と戦い、甚大な消耗を強いられる一方、共産党軍は巧みなゲリラ戦を展開しながら、支配地域を着実に拡大していきました。抗日という大義名分の下で、来るべき最終決戦に向けた勢力争いが、熾烈に繰り広げられていたのです。
最終決戦:国共内戦の再開と勝敗を分けたもの。
1945年、日本の敗戦により日中戦争が終結すると、両者を繋ぎとめていた最後の楔は失われました。アメリカの仲介による和平交渉も決裂し、1946年、中国全土を巻き込む「第二次国共内戦」が勃発します。
当初、兵力や装備、そしてアメリカからの支援において、国民党軍は圧倒的に優位でした。しかし、戦局は誰もが予想しなかった速さで共産党有利へと傾いていきます。なぜ、あれほど強大に見えた国民党は敗れたのでしょうか。その要因は、一つではありません。
人心の離反: 長年の戦争と汚職、そしてハイパーインフレーションにより、国民党政府は民衆の支持を完全に失っていました。特に農村部では、共産党が推し進めた土地改革が熱狂的に支持され、多くの農民が人民解放軍(共産党軍)に身を投じました。
戦略・戦術の差: 蒋介石が都市の防衛に固執したのに対し、毛沢東は農村で勢力を固め、都市を包囲する戦略を徹底しました。規律が厳しく、民衆からの略奪を禁じた人民解放軍は、腐敗し士気の低い国民党軍を各地で打ち破っていきます。
ソ連の支援: 日中戦争終結後、ソ連は満州で接収した日本軍の兵器を共産党に引き渡し、これが彼らの強力な武器となりました。
追い詰められた蒋介石は、1949年に台湾へと逃れます。そして同年10月1日、毛沢東は北京の天安門広場で「中華人民共和国」の建国を宣言。ここに、数十年にわたる激しい戦いは終わりを告げ、中国大陸は共産党の手に、そして台湾には国民党が存続するという、現代まで続く分断国家の形が確定したのです。
二人の人物像:その思想と性格の違い
彼らの対立の根源を理解するためには、その人物像と思想の違いを見ていく必要があります。
蒋介石: 彼は軍人であり、現実主義者でした。孫文の後継者として国家の統一を目指しましたが、その手法は独裁的であり、共産主義を国家を蝕む病として徹底的に敵視しました。彼の思想の根底には、中国の伝統的な価値観と、国家の安定を最優先するエリート意識がありました。しかし、その強権的な姿勢と、民衆の生活を顧みない政策が、最終的に人心の離反を招きました。
毛沢東: 彼は革命家であり、理想主義者でした。マルクス・レーニン主義を中国の現実に適用し、農民を革命の主体とする独自の思想を打ち立てました。彼は巧みな大衆扇動術とカリスマ性を持ち、人々を惹きつけ、巨大なエネルギーへと転換させる才能に長けていました。その理想は、時に「大躍進政策」や「文化大革命」といった悲劇を生み出しましたが、彼が中国の大多数を占める農民の心をつかんだことが、勝利の最大の要因であったことは間違いありません。
結局のところ、彼らの戦いは、都市のエリート層を基盤とする国民党と、広大な農村の民衆を基盤とする共産党の戦いでした。そして、より多くの民衆の支持を得た毛沢東に、最終的な勝利の女神は微笑んだのです。
歴史のIFと現代への影響。
もし、国共内戦で蒋介石が勝利していたら、中国、そしてアジアの歴史は全く違うものになっていたでしょう。おそらく、中国はアメリカ寄りの資本主義国家となり、冷戦の構図も大きく変わっていたはずです。しかし、歴史に「もしも」はありません。
蒋介石と毛沢東。この二人の宿命的な対立は、単なる過去の物語ではありません。現代中国の強権的な政治体制も、台湾をめぐる複雑で緊張した国際関係も、すべてはこの二人の戦いの延長線上にあります。彼らが繰り広げた壮大な歴史を知ることは、現代世界が抱える大きな課題の根源を理解し、未来を考える上で、極めて重要な鍵となるのです。私たちは、彼らの物語から、リーダーの選択が国家の運命をいかに左右するのか、そして民衆の支持を失った権力がいかに脆いものであるかを、学び続けることができるでしょう。
②
日本と台湾の関係性。
2011年3月11日、日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。
日本はこの震災によって、筆舌に尽くしがたいダメージを受けてしまいました。
今現在も、東北、そして日本は復興に向けて懸命の努力を続けています。
未曽有の災害に対し、世界各国が支援部隊を日本に派遣してくれたことは、記憶に新しいと思います。
その中で、最終的に200億円を超える義捐金(世界第1位)・政府への資金援助・物的支援・救援部隊派遣に動いてくれた「国」をご存知ですか?
それは現在も日本と深い関係にある台湾です。
震災が起こってから、台湾の日本に対する支援や姿勢が注目されましたが、
実はそれ以前から、日本と台湾はとても親しい関係を築いてきました。
中国や韓国など東アジアの国々と難しい外交が続く中、
なぜ台湾とは良い関係を築くことができているのでしょうか?
本稿では上記の問題意識から
日本と台湾がなぜ有効関係にあるのか
をわかりやすく解説します。
1.台湾の2つの政党:「国民党」と「民進党」
2000年3月。
台湾の総統選挙で政権をずっと握ってきた国民党が陥落し、陳水扁率いる民主進歩党(民進党)の政権が誕生しました。
これは台湾史上初の出来事でした。
台湾の政治は実質的に2大政党制と呼べる状態になっています。
(規模の小さい政党も含めると200以上の政党が存在します)
実質的と枕詞を置いたのは、「立法院」つまり日本で言う国会に議席を持っているのがこの2つの政党だけだからです。
結論から述べると、国民党は「台湾は中華人民共和国の一部である」と考えている政党です。
一方の民進党は、台湾の独立を主張し続けてきた政党です。
2000年3月の選挙では民進党が勝つことは、事前の世論からだいたい見通しがついていました。
日本でも選挙を行う前に世論から大体結果の予想がつきますよね。それと同じイメージです。
この見通しを目の当たりにしたのでしょう。
台湾総統選が行われる3日前、当時の中国朱鎔基首相は以下のように発言します。
「台湾総統選で、誰が当選しようといかなる形でも台湾の独立を許さない」
とし、さらに独立の動きについては
「独立しようとするのならそれを阻止するために武力行使も辞さない」
と踏み込んで発言しています。
この記事の冒頭でも台湾の事を指す代名詞の「国」にカギカッコをつけました。
台湾が「国家」なのかどうかは、これまで度々中国と台湾の間で問題になっており、
今なおはっきりとした答えが出ていないからです。
中国は台湾を国家として認めていませんし、おそらくこれからも認めないはずです。
そもそも台湾が独自に選挙を行ってリーダーを決めていることさえ、強い不満感を示しています。
なぜ中国は台湾の独立を認めたがらないのか
なぜ台湾のあり方に不満を示しているのか
この歴史をさかのぼっていくと、日本が登場します
<ここがポイント>
台湾には、「中華人民共和国」の1部と考える国民党と「独立」を主張する進歩党がある
2.日清戦争の結果、日本の統治が始まった
時代を19世紀の末までさかのぼります。
1894年、日本は日清戦争で清と交戦し、勝利をおさめました。
翌1895年の下関条約では以下の様な内容が決められます。
「第一条 清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス。
第二条 清国ハ左記ノ土地ノ主権(中略)ヲ永遠日本国ニ割与ス。
一 左ノ経界内ニ在ル奉天省南部ノ地(中略)
二 台湾全島及其ノ付属諸島嶼
三 澎湖列島(中略)
第四条 清国ハ軍費賠償金トシテ庫平銀二億両ヲ日本国ニ支払フヘキコトヲ約ス。(以下略)」
引用元:『日本外交年表竝主要文書』
日清戦争については割愛しますが、第一条で清国の朝鮮への宗主権を否定し、「独立国」としての地位を認めさせています。
第二条では、中国の土地の主権について言及されています。
これの第ニ項で、台湾を「日本国ニ割与」つまり、清から主権を奪ったことが読み取れると思います。
こうして台湾領土は日本の植民地支配下に置かれました。
当時、台湾は産業において重要な地域でない上に、人口も少なかったことから、
清は台湾が奪われることにそれほど大きな損失を感じていませんでした。
<ここがポイント>
日清戦争の結果、台湾は日本の植民地支配下におかれた
3.日本の植民地支配
こうして台湾を植民地支配下においた日本は、統治に乗り出します。
まず、「台湾総督府」を設置しました。
台湾総督府:1895年台北に設置。台湾統治のために置かれた官庁のこと
日本から派遣される台湾総督(初代:樺山資紀)を最高権力者として、統治を始めます。
台湾の住民は、日本の植民地支配に対して大々的に抵抗運動を展開しました。
こうした動きに日本は軍の力を用いて制圧します。
この時少なくとも1万人以上の台湾住民が抵抗戦の中で命を落としたことが、資料から分かっています。
その後も警察による強権政治を進めました。
植民地政策において最も力を注いだのが、日本同化策です。
例えば、台湾各地には日本式の神社を建造します。
神社
さらに、日本語教育も行い、日本での教育と同じように「天皇を元首とする日本臣民」という意識を植え付けます。
当時の教育を受けてご健在の台湾人は、日本語を流暢に話すことができます。
筆者は以前アメリカに留学した経験がありますが、そこで出会った台湾人の祖父母は、
ケンカをする際は必ず日本語を使う、と言っていました。
我を忘れるくらいカッとなった時に自然と出てくるのは日本語である・・・
それほど幼少期からの日本語教育は徹底したものだったのです。
<ここがポイント>
日本は植民地支配を通して、同化策に最も力を注いでいた
4.植民地支配のもう1つの側面:社会資本と教育
日本が台湾に残したものは、圧政的な諸制度だけではありません。
「台湾が奪われても、清はそれほど損失が生じると思っていなかった。」と前述しました。
清は、産業の面でも、人口の面でも台湾は経済的に重要な地域と見ていなかったからです。
日本の植民地支配は、この状況を変えました。
結論から述べると、植民地支配を通して台湾の産業発展の基盤を築きました。
台湾全地域に道路や鉄道、港湾を整備したのです。
経済的な視点からこの意義を説明します。
産業が発展するためには生産活動、消費活動双方活発になることが必要です。
2つを活発にするには、生産者から消費者へ届ける道路や鉄道も整備しなければなりません。
また港湾を整備することができれば貿易の活発化にもつながり、さらなる経済発展を狙えます。
(道路、鉄道など産業発展の基板となる社会の所有物を「社会資本」と呼びます。)
日本は台湾での植民地支配において、社会資本を整えることに成功しました。
また、台湾では、日本が統治するまで教育が全体に行き届いてませんでした。
しかし、日本が前頭で義務教育を徹底したことによって読み書きを出来る人が増え、
知識人層が増えるという事にもつながりました。
台湾の産業発展の基盤を整備した事(環境も整えたことにより死亡率の低下と出生率の向上もあった)
隅々まで教育を届かせ、台湾の知識人層を増やしたこと
この2つは今でも台湾で肯定的に語り継がれているのです。
<ここがポイント>
日本の植民地支配は台湾の社会資本の整備につながった。
まとめ~植民地支配に肯定的な評価はできるのか~
ここまで日本と台湾は何故現在のように友好関係にあるのか。
中国との関係、そして日本の植民地支配の歴史をさかのぼり解説してきました。
「4.植民地支配のもう1つの側面 :社会資本と教育」で日本が行ったことに対する肯定的な評価
について触れました。この部分について、1つ意識してもらいたい事を最後にご紹介します。
よく本稿のような解説をすると、「日本は植民地支配で良いこともした」という意識を持つ人がいます。
しかし、日本が産業発展の基盤を整え、教育を徹底したのは
日本の植民地支配を有利に進めることが目的でした。
どう評価するかは人それぞれですが、植民地支配と「良いことをした」というのは、
そう簡単につながらないことも意識すべきでないかと筆者は考えます。
是非皆さん独自の視点でこの歴史を考えてみてください。長くなりましたが以上です。
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