2025年9月17日水曜日

本当の天皇は、どこに?

明治維新から天皇に権力が集中し、結果あのような外国侵略戦争に発展した、、  天皇が判断を誤り開戦の判断をしたこと、そして負け戦が わかっていたにも関わらず戦争を長引かせたことに、 こんなに無能なのに、なぜ天皇とあがめる人が多いのか? 不思議で、・以前、裏天皇が四国に いるとの情報をネットでみていたので・調べてみました。 結局今の天皇家は、正当に引き継がれたものでは無かったと、いうこと。いわば、権利の横取りみたいな。 → 「南北朝時代」は、日本に二人の天皇が存在し、争いが続いた特殊な時代でした。しかし、この話題は学校の教科書ではあまり深く触れられていません。 なぜなら、今の天皇家の正統性にも関わる「タブー」があるからです。 南北朝時代の天皇がどのようにしてタブー視されるようになったのか、そして南朝の子孫は今どうなっているのか、塾長の私がわかりやすく解説していきます! 南北朝時代の天皇がタブー視される理由とは 南北朝時代(1336年〜1392年)は、日本に二つの天皇家が並び立つという異例の状況が続いた時代です。南朝(後醍醐天皇の系統)と北朝(足利幕府が支援した天皇の系統)が争い、結果的に北朝側が勝利しました。 しかし、その後の歴史の中で南朝の存在はタブー視され、あまり語られることがなくなりました。 その理由を詳しく見ていきましょう。 南北朝時代の「二つの天皇」とは 南北朝時代には、南朝と北朝の二つの皇室が存在していました。南朝は後醍醐天皇の系統であり、奈良県吉野に拠点を構えました。一方、北朝は足利尊氏によって京都に擁立された天皇の系統です。 南朝は、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した後、自らがすべての政治を行おうとしたことが原因で武士たちと対立し、最終的に京都を追われました。そして、南朝の天皇たちは「自分たちこそ正統な皇統だ!」と主張し続けました。 しかし、足利幕府は自分たちが支持する北朝を正統な天皇として扱い、政治の中枢に据えました。その結果、約60年にわたる南北朝の戦いが続いたのです。 天皇が二人存在したことが現代に及ぼす影響 「天皇は一人しかいないはずなのに、なぜ二人の天皇がいたの?」と疑問に思うかもしれませんね。実は、天皇が二人存在するという状況は、現在の皇室にも関わる非常にデリケートな問題なのです。 明治時代には「南朝が正統である」と決められました。つまり、「現在の天皇家は南朝の正統を引き継いでいる」ということにされたのです。しかし、実際には、南北朝合一の後、皇統は北朝の流れをくむものになりました。 つまり、南朝を正統としながらも、今の天皇家は北朝の子孫という矛盾を抱えているのです。 この矛盾を強調すると、天皇家の正統性に疑問を持たれることになります。そのため、南北朝時代の歴史は「タブー」として扱われやすいのです。 南朝天皇がタブー視される背景とその理由 では、なぜ南朝の天皇が特にタブー視されるのでしょうか?それには、いくつかの理由があります。 まず、南北朝合一の際に「交互に天皇を出す」と決められたにもかかわらず、北朝系の天皇が独占し続けたことが原因です。つまり、約束が守られなかったのです。 また、南朝の皇族たちはその後も抵抗を続けましたが、室町幕府によって次々と討たれ、排除されていきました。こうして南朝は歴史の表舞台から消えていったのです。 しかし、江戸時代の学者・水戸光圀などによって「南朝こそが正統」という考えが広まりました。この考えが明治時代に受け入れられたことで、南北朝の問題はさらにややこしくなったのです。 後南朝の悲劇と「長禄の変」—南朝の最後 南朝の天皇の流れをくむ人々は、完全に歴史から消えたわけではありませんでした。南北朝合一後も、南朝の血を引く皇族たちは「後南朝」として再び勢力を持とうとしました。 しかし、長禄2年(1458年)、南朝の皇族である「自天王」と「忠義王」が、幕府によって暗殺されてしまいました。この事件は「長禄の変」と呼ばれ、これによって南朝の血統は完全に途絶えたとされています。 南朝が完全に消え去ったことは、幕府にとっては都合の良いことでした。これ以降、「南朝の正統性」は封印され、語られることが少なくなっていきました。 幕末・明治維新と南朝正統論の復活 江戸時代の後半になると、水戸学の影響で「南朝こそ正統」という考えが広まりました。幕末の尊王攘夷運動の中で、南朝を正統とすることで、幕府を打倒する大義名分が生まれたのです。 そして、明治時代に入ると、新政府は「南朝が正統」と正式に決定しました。これにより、南北朝時代の歴史は再び見直されましたが、同時に「北朝の流れをくむ今の天皇家は本当に正統なのか?」という矛盾も生まれました。 こうした背景があるため、南北朝時代の天皇の話は今でも慎重に扱われることが多いのです。 南北朝時代の天皇がタブー:南朝の子孫の現在 南北朝時代が終わった後、南朝の子孫たちはどうなったのでしょうか?天皇家は北朝系の血統が続いていますが、南朝の皇族は完全に消えてしまったのでしょうか? 実は、南朝の子孫にまつわる話は今も各地に残っているのです。ここでは、南朝の子孫の行方や、彼らにまつわる伝説、そして現代に続く影響を解説していきます。 南朝の皇族は本当に絶えたのか? 南朝の最後の天皇・後亀山天皇が北朝に三種の神器を渡して南北朝が合一した後、南朝の皇族たちはどうなったのでしょうか?実は、南朝の天皇の血を引く皇族たちは、その後も各地に潜伏しながら生き延びていました。 南朝の正統を守ろうとした皇族たちは「後南朝」として活動を続け、室町幕府に対して抵抗を続けました。しかし、彼らは次第に力を失い、長禄2年(1458年)の「長禄の変」で自天王と忠義王が暗殺されることで、南朝の正統な血統は絶えたとされています。 しかし、一部の南朝の血を引く人々は、地方に逃れたり、名を変えたりして生き延びたという説もあります。彼らの子孫が今も存在している可能性はゼロではありません。 後南朝の末裔と伝わる家系 歴史の中で、南朝の皇族の血を引くとされる家系はいくつか存在しています。特に、奈良県の川上村には「後南朝の皇族の子孫が住んでいた」との伝承が残っています。 例えば、川上村では毎年2月5日に「朝拝式(ちょうはいしき)」という儀式が行われています。これは、後南朝の皇族だった「自天王」を祀るためのもので、500年以上も続いている伝統行事です。これは、南朝の皇族の子孫が実際にいた証拠ではないかと考える人もいます。 また、明治時代には「熊沢天皇」と名乗る人物が登場しました。彼は「自分こそが南朝の正統な皇統である」と主張しましたが、結局、その主張が認められることはありませんでした。 南朝の血を引く可能性のある家系とは? 南朝の子孫が現在の日本に存在するのかどうかは、確実な証拠がないため、はっきりとは言えません。しかし、「南朝の皇族の血を引いているかもしれない」と言われる家系は、日本各地にいくつかあります。 例えば、熊本県の相良(さがら)家や、四国の河野(こうの)家などがその代表です。これらの家系は、南朝と深い関わりを持っていたとされ、伝承や家系図に「南朝の皇族の子孫である」と記されていることがあります。 また、源氏や平氏のように、多くの武士の家系が天皇の血を引いていると言われるように、南朝の子孫も、名を変えて全国各地に広がっている可能性もあります。 南朝の正統性は今も影響を与えているのか? 南朝が正統であるとする考え方は、実は今の日本にも影響を与えています。例えば、明治時代には「南朝が正統である」と公式に決められました。これは、明治政府が新しい日本を作る上で、「武家の時代(幕府)」を否定し、天皇中心の国家を作りたかったからです。 しかし、南朝が正統とされた一方で、実際に続いたのは北朝の血統でした。この矛盾は、現在の皇室の正統性にも関わるため、南北朝時代の歴史を深く掘り下げることがタブー視される原因の一つになっています。 また、南朝を正統とする考え方は、戦前の日本の教育にも大きな影響を与えました。特に、戦時中は「南朝の忠臣である楠木正成が日本の理想の武士」として持ち上げられました。しかし、戦後になると、この考え方はあまり強調されなくなり、南北朝の話題自体が避けられるようになりました。 南北朝の歴史は現代にどう影響を与えているのか? 南北朝時代の出来事は、600年以上前の話ですが、現在の日本にもその影響が残っています。 例えば、皇位継承問題です。日本では、天皇が誰になるかは非常に重要な問題ですが、もし「南朝の血を引く人が今も存在していたら?」という疑問が出ると、皇位の正統性に疑問が生じる可能性があります。そのため、南朝の話題は今も慎重に扱われています。 また、南朝を支援した楠木正成のような人物は、日本の歴史教育において特別な扱いを受けることが多いです。彼の忠誠心が称えられる一方で、「なぜ南朝を正統としながらも、北朝の血統が続いたのか?」という矛盾については、あまり語られません。 さらに、最近ではインターネット上で「自分こそ南朝の子孫だ」と名乗る人が登場することもあります。このように、南北朝の歴史は決して過去のものではなく、今もなお日本社会に影響を与え続けているのです。

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