2025年9月12日金曜日

第二次世界大戦

だいたいの流れがわかる動画です。 動画検索→6時間でわかる第二次世界大戦

イスラエルを支援する参政党

まずはこの記事を。 昨日のしんぶん赤旗  【カイロ=米沢博史】イスラエル軍は9日、停戦交渉のためにカタールを訪問中だったパレスチナのイスラム組織ハマスの幹部を標的とした攻撃を行ったと発表しました。ガザでの停戦交渉の仲介国カタール領内を攻撃したことに「露骨な主権侵害」との非難の声が上がっています。  攻撃は24時間以内にパレスチナのガザ地区とヨルダン川西岸、レバノン、シリア、さらにチュニジアに停泊していた国際NGOのガザ支援船にまで及んだと伝えられています。  カタール外務省は9日、首都ドーハでハマス政治局メンバーが滞在中の施設が攻撃されたと発表し、「国際法と規範の明白な違反であり、国民と居住者に対する深刻な脅威」だと強く非難しました。同国内務省によると、治安部隊員1人が死亡、複数が負傷しました。  イスラエル軍は、ドーハでの作戦を認め、イスラエル首相府は「本日の行動は完全にイスラエル単独によるものだ」とSNSで発表しました。  ハマスは同日、メンバー5人が死亡したと明らかにしました。停戦交渉を担当するハマス幹部のハリル・ハイヤ氏は暗殺を免れましたが、息子と側近1人が死亡したとしています。  国連のグテレス事務総長は「カタールの主権と領土保全に対する露骨な侵害」と強く非難しました。  カタールと共に停戦交渉を仲介してきたエジプトの大統領府は、「停戦仲介を担ってきたカタールへの攻撃は危険な前例となり容認できない。この攻撃は調停努力を損ない、地域の安定を脅かす」と強く非難。サウジアラビア外務省も「残虐な侵略でカタールへの露骨な主権侵害」と非難しました。  国連安保理はこの問題を巡って10日に緊急会合を開くことを決めました。会合はアルジェリア、パキスタン、ソマリアが要請したものです。 以上 イスラエル、自分で自分の首を締めてますが、、、 イスラエル問題については先日掲載しましたが、動画でもどうぞ。 そして忘れてならないのは、ユダヤ人たちがパレスチナに 戻り再びユダヤ人の国を作ろう!との行動に感銘した宗教団体「キリストの幕屋」に加盟していたのが参政党代表の神谷宗幣であったこと、 キリストの幕屋メンバーは、イスラエルに出向き、ガザに向けた爆弾に、「イスラエルに栄光あれ」のサインをしていたこと、 それから、国会議員になった神谷が「イスラエルに行きたいけど行けなくなった、ただこれからは外務省とか使えるので、正規のルートでイスラエルを」と、名言した証拠動画がありましたね。 彼はおそらく、いや確実に、このニュースを知って喜んだでしょう。 狂っていますが、、 それが神谷宗幣であり、参政党であるのだ、これが参政党の本性なのだということ、 これは、私達日本人にとって間近に迫っている問題なのです。 神谷は、参政党は、、日本をそのようにしていくつもりなのですから。 だから、参政党から出馬し当選をしてしまったサヤが、 「核は安上がり」発言をおこなったのですから。では、 」 検索動画→パレスチナの歴史、4000年前から現代までのパレスチナの歴史を

2025年9月11日木曜日

信念とは

この言葉を、自分は好きですね。。 解釈は様々かもしれないですが、自分とすれば、 ●自分を信じる心の強さ。 と言いますか、、、 自分が決めたことをやり通す念力。みないに感じます。 実際自分でも、信念はかなり強い方だと。 そのため、こだわりも強いですが。 実家を片付けていた際に、小学校の卒アルが見つかり めくると、表紙裏に校長が筆で書いた文字が。 ●強い信念を持つ井上弥生さん。 と、、 私たちは学年全員で9人だったので、校長は全員の性質を見抜いており、、 一人ひとりに合う言葉を書いたのでしょう。 中学に入ってから見ていなく、覚えていなかったのですが、 50半ばに見て、、ビックリしましたね。 あ!子供の頃からやったんや!と。 動画のこの方も、この方なりの、強い信念が、、 ある意味、●自分との闘い。 も、されているのだな、と。 動画検索→沖縄辺野古埋め立て計画から、戦没者の遺骨を守る物語

2025年9月10日水曜日

日本兵によるマレーシア虐殺

教育者である高嶋氏の素晴らしさと、沼田さんの活動、、 植松氏の話す内容はまさに学びそのもの。 最後に出てきた事実、近衛文麿が半年早い時期の戦争終結を 天皇にすすめた際の天皇の返答に、愕然。 天皇制なんて、ほんま、いらんでしょ!! 動画検索→アジア太平洋戦争80年企画、マレーシア虐殺事件を謝罪したヒロシマの語り部

日本と台湾の絆

この動画内で案内人は、「自虐からの脱却」的なことを言っています。 戦争で日本は悪い事をしたとか、、そういう事を、「自虐」 と呼び片付けてしまうのは、わたしは違うと思いますね。 「表裏一体」という言葉がありますが、良かった面と悪かった面両方を査定できることが、真に向き合うことだと。 台湾が日本に感謝する一面があるということは、わかります 。 それはたぶん、日本が台湾を占領する前とを比較して、現地の人たちから、よかったと思われたからではないかと。 もちろん日本人による殺りくも一部あったようですので、 ただ台湾の人は、それを含めても、日本に感謝している人が多いのかも?しれないですね、、、 そしてなによりも、前動画の、根本博、彼がいなければ台輪は丸々中国化していたわけですから、台湾の教科書は全く違うものと、なっていたでしょう。   動画検索→動画、日本と台湾の絆

2025年9月9日火曜日

日本国民と台湾のため、根本博

前記事によると、国民党は台湾を中国のものとしているが、 戦時に毛沢東率いる共産党が勝っていれば、台湾は中国と同化していたでしょうから、現在のように親日とはいかなかったでしょう。 台湾が現在の台湾であるために、戦後帰国した後に、 助けてもらった日本を代表して、恩義を返すために戦地に赴いた男の物語。この男の人間力もまた、賢く謙虚でかっこいい生き様だ。動画検索→日本人居留民を守り、台湾を救った義の名将、根本博

日本と台湾、蒋介石と毛沢東

令和2年から3年の間の約一年、身体に無理ない範囲で、高齢者の家事介助をしていました。 数軒の担当を持った中に、90代の男性が。 その家については、清掃の仕事を。 介護保険事業所に登録をし、仕事を請け負う形。 一回に付き利用者が払う自己負担金額は300円。 事業所が受け取るのは3000円なので、差額2700円は 国民が支払っている介護保険料などから受け取ることになり、そのうち、わたしたちが受け取る額は、45分800円、プラス交通費は、車なら実費、二百円とかそんな感じ。 なので残りの二千円が、担当のケアマネとか、わたしらに 仕事ふる事業所の人間の給与とか、事業所の維持費なんかに 使用される。 あと、事業所の利益も。 利用者によっては、買い物の人も。 金額は同じ。 で、その男性は90代でした。 午前中はほぼ毎日囲碁クラブに通い、、 割とお元気そうですが、自力での掃除は難しく、、 いつも行くと、 ●もうそれでいいから一緒にビデオ見よ!と、 言われて、、そういうわけにはいかないので、 トイレや台所の掃除を終えて居間の掃除をする際に、 ビデオがかかり、チョコチョコ見ながら清掃を。 おんなじビデオです、毎回。 尼崎市内のホテルで行われた、奄美大島出身の人らの食事会。男性の、米寿の時で、紫のレイを首からかけてもらい、 他の人が歌ったり、、 男性は奄美大島の加計呂麻島出身で、15で中国へ兵隊に行ったと。 家が貧乏で、戦争に勝てば中国で広い土地をもらえると聞いて。 第二次世界大戦で日本が敗戦して引き揚げる時に、 蒋介石と毛沢東が撃ち合いしているなかを帰って来たと。 日本に帰り、その後神戸に仕事に来たのだ、と。 この人と知り合い、最初わたしは加計呂麻島もしくは 奄美大島南部に住みたいと思い家を探しましたが、 空き家バンク情報で見つけた その自分が住みたいと思った木造家屋は、羽アリ駆除の薬が床下に施してあったり、夏に集落一斉に、家の周りの溝に殺虫剤を撒くとかで、、無理だし、 第一ペット可が無い。 なので沖縄に。。 さあその、①中国内での二大政党による戦争の話をまず先に。 そして、②台湾が親日の理由などについてを。 ①2025年6月記事→ 20世紀の中国史を語る上で、決して避けては通れない二人の巨人、蒋介石と毛沢東。彼らは、巨大な国家の未来をその両肩に背負い、時には手を携え、そしてついには国家を二分するほどの激しい戦いを繰り広げました。なぜ彼らは協力し、そして袂を分かち、宿命のライバルとして歴史に名を刻むことになったのでしょうか。この記事では、彼らが共に歩んだ道のりと、決裂に至った根本的な原因、そして二人の人物像の違いを深く掘り下げていきます。単なる歴史の暗記ではなく、彼らの選択の背景にある思想や人間性に迫ることで、現代中国の成り立ちと、今なお続く台湾問題の根源を理解する、新たな視点を提供します。 出会いと第一次国共合作:打倒軍閥という共通目標。 彼らの関係の始まりは、意外にも「協力」でした。1924年、中国は辛亥革命後も、各地で軍閥が割拠し、内乱が続く混乱状態にありました。この状況を憂いた「中国革命の父」孫文は、中国を統一し、列強の支配から脱却するため、ソビエト連邦と手を結びます。そして、その指導のもと、息子の蒋介石が率いる「国民党」と、毛沢東らが所属する「共産党」が協力体制を築きます。これが「第一次国共合作」です。 この時点での両者の目標は、「打倒軍閥」と「反帝国主義」で一致していました。蒋介石は軍事的な才能を発揮し、軍閥を次々と打ち破る「北伐」を進めます。一方、毛沢東は農民や労働者を組織し、革命の基盤を築くことに力を注ぎました。しかし、この協力関係は、水面下で互いの思惑が渦巻く、緊張をはらんだものでした。蒋介石にとって共産党は、あくまで目的達成のための駒であり、その勢力拡大には強い警戒心を抱いていました。共産党もまた、国民党との協力は革命を成就させるための一時的な手段と考えていたのです。共通の敵がいなくなった時、彼らの対立は避けられない運命でした。 決裂と対立の激化:上海クーデターと国共内戦。 協力関係の崩壊は、あまりにも突然、そして決定的な形で訪れます。1927年4月12日、北伐の過程で上海に入城した蒋介石は、突如として共産党員に対し大規模な弾圧を開始しました。これが「上海クーデター」です。この事件により、第一次国共合作は完全に崩壊。多くの共産党員が命を落とし、毛沢東ら生き残った者たちは、農村部へと逃れることを余儀なくされます。 なぜ蒋介石はこのような強硬手段に出たのでしょうか。その背景には、共産党の急速な台頭に対する恐怖と、彼を支持する資本家たちの存在がありました。共産党が掲げるプロレタリアート独裁は、国民党の支持基盤である地主や資本家の利益と真っ向から対立します。蒋介石は、軍閥という外敵を排除した先に見える、共産党という「内なる敵」の存在を、決して容認できなかったのです。 このクーデターを境に、両者の立場は逆転します。蒋介石は南京に国民政府を樹立し、中国の支配者としての地位を固めていく一方、毛沢東は江西省の瑞金に「中華ソビエト共和国臨時中央政府」を樹立。ここから、10年にも及ぶ血みどろの「第一次国共内戦」が始まったのです。国民党軍の猛烈な包囲攻撃に対し、共産党軍は「長征」と呼ばれる苦難の戦略的撤退を敢行。この絶望的な状況下で、毛沢東は指導者としての地位を確立し、農村から都市を包囲するという独自の革命理論を築き上げていきました。 束の間の再協力:第二次国共合作と日中戦争。 泥沼の内戦を続ける両者に、再び協力の時が訪れます。皮肉にも、そのきっかけは「日本」という新たな、そしてより強大な共通の敵の出現でした。1931年の満州事変以降、日本の中国侵略が本格化する中で、蒋介石は「安内攘外(まず国内の安定を優先し、その後で外国の侵略を排除する)」という方針を掲げ、共産党の掃討を優先していました。 しかし、国民の間では「内戦を停止し、共に日本と戦うべきだ」という声が日増しに高まります。そして1936年12月、歴史を大きく動かす事件が起こります。共産党との前線にいた張学良が、督戦に訪れた蒋介石を拘束し、抗日と内戦停止を要求したのです。これが「西安事件」です。絶体絶命の蒋介石を救ったのは、意外にも宿敵である共産党でした。共産党は、抗日統一戦線の実現という大局的な見地から、蒋介石の釈放を働きかけます。この事件を機に内戦は停止され、1937年に日中戦争が全面化すると、「第二次国共合作」が成立。両者は再び、日本の侵略に立ち向かうことになったのです。 しかし、これもまた仮初めの協力に過ぎませんでした。蒋介石率いる国民党軍が正面から日本軍と戦い、甚大な消耗を強いられる一方、共産党軍は巧みなゲリラ戦を展開しながら、支配地域を着実に拡大していきました。抗日という大義名分の下で、来るべき最終決戦に向けた勢力争いが、熾烈に繰り広げられていたのです。 最終決戦:国共内戦の再開と勝敗を分けたもの。 1945年、日本の敗戦により日中戦争が終結すると、両者を繋ぎとめていた最後の楔は失われました。アメリカの仲介による和平交渉も決裂し、1946年、中国全土を巻き込む「第二次国共内戦」が勃発します。 当初、兵力や装備、そしてアメリカからの支援において、国民党軍は圧倒的に優位でした。しかし、戦局は誰もが予想しなかった速さで共産党有利へと傾いていきます。なぜ、あれほど強大に見えた国民党は敗れたのでしょうか。その要因は、一つではありません。 人心の離反: 長年の戦争と汚職、そしてハイパーインフレーションにより、国民党政府は民衆の支持を完全に失っていました。特に農村部では、共産党が推し進めた土地改革が熱狂的に支持され、多くの農民が人民解放軍(共産党軍)に身を投じました。 戦略・戦術の差: 蒋介石が都市の防衛に固執したのに対し、毛沢東は農村で勢力を固め、都市を包囲する戦略を徹底しました。規律が厳しく、民衆からの略奪を禁じた人民解放軍は、腐敗し士気の低い国民党軍を各地で打ち破っていきます。 ソ連の支援: 日中戦争終結後、ソ連は満州で接収した日本軍の兵器を共産党に引き渡し、これが彼らの強力な武器となりました。 追い詰められた蒋介石は、1949年に台湾へと逃れます。そして同年10月1日、毛沢東は北京の天安門広場で「中華人民共和国」の建国を宣言。ここに、数十年にわたる激しい戦いは終わりを告げ、中国大陸は共産党の手に、そして台湾には国民党が存続するという、現代まで続く分断国家の形が確定したのです。 二人の人物像:その思想と性格の違い 彼らの対立の根源を理解するためには、その人物像と思想の違いを見ていく必要があります。 蒋介石: 彼は軍人であり、現実主義者でした。孫文の後継者として国家の統一を目指しましたが、その手法は独裁的であり、共産主義を国家を蝕む病として徹底的に敵視しました。彼の思想の根底には、中国の伝統的な価値観と、国家の安定を最優先するエリート意識がありました。しかし、その強権的な姿勢と、民衆の生活を顧みない政策が、最終的に人心の離反を招きました。 毛沢東: 彼は革命家であり、理想主義者でした。マルクス・レーニン主義を中国の現実に適用し、農民を革命の主体とする独自の思想を打ち立てました。彼は巧みな大衆扇動術とカリスマ性を持ち、人々を惹きつけ、巨大なエネルギーへと転換させる才能に長けていました。その理想は、時に「大躍進政策」や「文化大革命」といった悲劇を生み出しましたが、彼が中国の大多数を占める農民の心をつかんだことが、勝利の最大の要因であったことは間違いありません。 結局のところ、彼らの戦いは、都市のエリート層を基盤とする国民党と、広大な農村の民衆を基盤とする共産党の戦いでした。そして、より多くの民衆の支持を得た毛沢東に、最終的な勝利の女神は微笑んだのです。 歴史のIFと現代への影響。 もし、国共内戦で蒋介石が勝利していたら、中国、そしてアジアの歴史は全く違うものになっていたでしょう。おそらく、中国はアメリカ寄りの資本主義国家となり、冷戦の構図も大きく変わっていたはずです。しかし、歴史に「もしも」はありません。 蒋介石と毛沢東。この二人の宿命的な対立は、単なる過去の物語ではありません。現代中国の強権的な政治体制も、台湾をめぐる複雑で緊張した国際関係も、すべてはこの二人の戦いの延長線上にあります。彼らが繰り広げた壮大な歴史を知ることは、現代世界が抱える大きな課題の根源を理解し、未来を考える上で、極めて重要な鍵となるのです。私たちは、彼らの物語から、リーダーの選択が国家の運命をいかに左右するのか、そして民衆の支持を失った権力がいかに脆いものであるかを、学び続けることができるでしょう。 ② 日本と台湾の関係性。 2011年3月11日、日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。 日本はこの震災によって、筆舌に尽くしがたいダメージを受けてしまいました。 今現在も、東北、そして日本は復興に向けて懸命の努力を続けています。 未曽有の災害に対し、世界各国が支援部隊を日本に派遣してくれたことは、記憶に新しいと思います。 その中で、最終的に200億円を超える義捐金(世界第1位)・政府への資金援助・物的支援・救援部隊派遣に動いてくれた「国」をご存知ですか? それは現在も日本と深い関係にある台湾です。 震災が起こってから、台湾の日本に対する支援や姿勢が注目されましたが、 実はそれ以前から、日本と台湾はとても親しい関係を築いてきました。 中国や韓国など東アジアの国々と難しい外交が続く中、 なぜ台湾とは良い関係を築くことができているのでしょうか? 本稿では上記の問題意識から 日本と台湾がなぜ有効関係にあるのか をわかりやすく解説します。 1.台湾の2つの政党:「国民党」と「民進党」 2000年3月。 台湾の総統選挙で政権をずっと握ってきた国民党が陥落し、陳水扁率いる民主進歩党(民進党)の政権が誕生しました。 これは台湾史上初の出来事でした。 台湾の政治は実質的に2大政党制と呼べる状態になっています。 (規模の小さい政党も含めると200以上の政党が存在します) 実質的と枕詞を置いたのは、「立法院」つまり日本で言う国会に議席を持っているのがこの2つの政党だけだからです。 結論から述べると、国民党は「台湾は中華人民共和国の一部である」と考えている政党です。 一方の民進党は、台湾の独立を主張し続けてきた政党です。 2000年3月の選挙では民進党が勝つことは、事前の世論からだいたい見通しがついていました。 日本でも選挙を行う前に世論から大体結果の予想がつきますよね。それと同じイメージです。 この見通しを目の当たりにしたのでしょう。 台湾総統選が行われる3日前、当時の中国朱鎔基首相は以下のように発言します。 「台湾総統選で、誰が当選しようといかなる形でも台湾の独立を許さない」 とし、さらに独立の動きについては 「独立しようとするのならそれを阻止するために武力行使も辞さない」 と踏み込んで発言しています。 この記事の冒頭でも台湾の事を指す代名詞の「国」にカギカッコをつけました。 台湾が「国家」なのかどうかは、これまで度々中国と台湾の間で問題になっており、 今なおはっきりとした答えが出ていないからです。 中国は台湾を国家として認めていませんし、おそらくこれからも認めないはずです。 そもそも台湾が独自に選挙を行ってリーダーを決めていることさえ、強い不満感を示しています。 なぜ中国は台湾の独立を認めたがらないのか なぜ台湾のあり方に不満を示しているのか この歴史をさかのぼっていくと、日本が登場します <ここがポイント> 台湾には、「中華人民共和国」の1部と考える国民党と「独立」を主張する進歩党がある 2.日清戦争の結果、日本の統治が始まった 時代を19世紀の末までさかのぼります。 1894年、日本は日清戦争で清と交戦し、勝利をおさめました。 翌1895年の下関条約では以下の様な内容が決められます。 「第一条 清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス。 第二条 清国ハ左記ノ土地ノ主権(中略)ヲ永遠日本国ニ割与ス。  一 左ノ経界内ニ在ル奉天省南部ノ地(中略)   二 台湾全島及其ノ付属諸島嶼  三 澎湖列島(中略) 第四条 清国ハ軍費賠償金トシテ庫平銀二億両ヲ日本国ニ支払フヘキコトヲ約ス。(以下略)」                           引用元:『日本外交年表竝主要文書』 日清戦争については割愛しますが、第一条で清国の朝鮮への宗主権を否定し、「独立国」としての地位を認めさせています。 第二条では、中国の土地の主権について言及されています。 これの第ニ項で、台湾を「日本国ニ割与」つまり、清から主権を奪ったことが読み取れると思います。 こうして台湾領土は日本の植民地支配下に置かれました。 当時、台湾は産業において重要な地域でない上に、人口も少なかったことから、 清は台湾が奪われることにそれほど大きな損失を感じていませんでした。 <ここがポイント> 日清戦争の結果、台湾は日本の植民地支配下におかれた 3.日本の植民地支配 こうして台湾を植民地支配下においた日本は、統治に乗り出します。 まず、「台湾総督府」を設置しました。 台湾総督府:1895年台北に設置。台湾統治のために置かれた官庁のこと 日本から派遣される台湾総督(初代:樺山資紀)を最高権力者として、統治を始めます。 台湾の住民は、日本の植民地支配に対して大々的に抵抗運動を展開しました。 こうした動きに日本は軍の力を用いて制圧します。 この時少なくとも1万人以上の台湾住民が抵抗戦の中で命を落としたことが、資料から分かっています。 その後も警察による強権政治を進めました。 植民地政策において最も力を注いだのが、日本同化策です。 例えば、台湾各地には日本式の神社を建造します。 神社 さらに、日本語教育も行い、日本での教育と同じように「天皇を元首とする日本臣民」という意識を植え付けます。 当時の教育を受けてご健在の台湾人は、日本語を流暢に話すことができます。 筆者は以前アメリカに留学した経験がありますが、そこで出会った台湾人の祖父母は、 ケンカをする際は必ず日本語を使う、と言っていました。 我を忘れるくらいカッとなった時に自然と出てくるのは日本語である・・・ それほど幼少期からの日本語教育は徹底したものだったのです。 <ここがポイント> 日本は植民地支配を通して、同化策に最も力を注いでいた 4.植民地支配のもう1つの側面:社会資本と教育 日本が台湾に残したものは、圧政的な諸制度だけではありません。 「台湾が奪われても、清はそれほど損失が生じると思っていなかった。」と前述しました。 清は、産業の面でも、人口の面でも台湾は経済的に重要な地域と見ていなかったからです。 日本の植民地支配は、この状況を変えました。 結論から述べると、植民地支配を通して台湾の産業発展の基盤を築きました。 台湾全地域に道路や鉄道、港湾を整備したのです。 経済的な視点からこの意義を説明します。 産業が発展するためには生産活動、消費活動双方活発になることが必要です。 2つを活発にするには、生産者から消費者へ届ける道路や鉄道も整備しなければなりません。 また港湾を整備することができれば貿易の活発化にもつながり、さらなる経済発展を狙えます。 (道路、鉄道など産業発展の基板となる社会の所有物を「社会資本」と呼びます。) 日本は台湾での植民地支配において、社会資本を整えることに成功しました。 また、台湾では、日本が統治するまで教育が全体に行き届いてませんでした。 しかし、日本が前頭で義務教育を徹底したことによって読み書きを出来る人が増え、 知識人層が増えるという事にもつながりました。 台湾の産業発展の基盤を整備した事(環境も整えたことにより死亡率の低下と出生率の向上もあった) 隅々まで教育を届かせ、台湾の知識人層を増やしたこと この2つは今でも台湾で肯定的に語り継がれているのです。 <ここがポイント> 日本の植民地支配は台湾の社会資本の整備につながった。 まとめ~植民地支配に肯定的な評価はできるのか~ ここまで日本と台湾は何故現在のように友好関係にあるのか。 中国との関係、そして日本の植民地支配の歴史をさかのぼり解説してきました。 「4.植民地支配のもう1つの側面 :社会資本と教育」で日本が行ったことに対する肯定的な評価 について触れました。この部分について、1つ意識してもらいたい事を最後にご紹介します。 よく本稿のような解説をすると、「日本は植民地支配で良いこともした」という意識を持つ人がいます。 しかし、日本が産業発展の基盤を整え、教育を徹底したのは 日本の植民地支配を有利に進めることが目的でした。 どう評価するかは人それぞれですが、植民地支配と「良いことをした」というのは、 そう簡単につながらないことも意識すべきでないかと筆者は考えます。 是非皆さん独自の視点でこの歴史を考えてみてください。長くなりましたが以上です。

2025年9月8日月曜日

樋口季一郎

こちらもユダヤ人を救った人物、 まず、こちらの記事を。→ 広島に原爆が投下された2日後の1945(昭和20)年8月8日、中立条約(41年4月調印)を結んでいたソ連が、日本に宣戦を布告した。日本は米英との和平交渉の仲介役をソ連に打診していたほどで、まったくの不意打ちに何の対応も取れなかった。ソ連の参戦は、同年2月に開かれた米英ソ首脳によるヤルタ会談で秘密決定されており、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることになっていた。  ソ連との国境地帯に配置された日本軍は、主力を南方戦線に引き抜かれ、戦力は著しく低下していた。これに対し、ソ連軍は対日戦に約150万人の兵力を動員、大量の戦車や航空戦力で日本軍を圧倒し、またたくまに日本の勢力圏だった満州国と朝鮮半島北部を制圧した。さらに、日本がポツダム宣言を受諾した後に千島列島に侵攻し、日本側の守備隊と激しい戦闘が繰り広げられた。  同年の9月初めまで続いた日ソ戦では、ソ連側推定で戦死者はソ連軍が約8200人だったのに対し、日本軍は約8万人に及んだ。停戦後に捕虜となった日本の軍人、軍属のうち57万人以上がシベリアや中央アジア、モンゴルなどの収容所に抑留され、強制労働を課された。厳しい飢えと寒さで、抑留者のうち死者は約5万5000人に達した。 、、、 では、検索動画→ 海外の反応、あの日本人を助けろ、なぜか戦犯となった日本軍人が受けた7年前の恩返し

杉原千畝、イスラエルとパレスチナ

まず、イスラエルとパレスチナ問題を。その後にユダヤ人を救った杉原千畝の動画を。    アメリカ社会におけるユダヤ人に忖度し、アメリカは、イスラエルの支援を続けています→問題の発端は2000年以上前 2000年以上前、パレスチナにはユダヤ教を信じる人々(ユダヤ人)の王国がありました。しかし、王国はローマ帝国によって滅ぼされてしまいます。 ユダヤ人は、パレスチナを追い出され、世界各地へ移り住むことになりました。 紛争の大きなきっかけとなったイスラエル建国。 19世紀、パレスチナへ戻ろうと考えたユダヤ人たちにより、祖国復帰運動「シオニズム運動」が起こります。 パレスチナを統治していたイギリスが、ユダヤ人の国家建設を支持しました。これには、ユダヤ系の大財閥から資金援助を引き出そうという狙いがありました。 イギリスは一方でアラブ人にも独立国家をつくると約束しました。パレスチナを含むアラブ地域を支配していたオスマン帝国を切り崩すという目的があったのです。 さらに、イギリスはフランスと地域を山分けする密約も結んでいました。このイギリスの3つの約束は「三枚舌外交」と呼ばれました。結局、オスマン帝国の領土は英仏間で山分けされることになりました。 移住したユダヤ人と先住のパレスチナ人との間に衝突が続く中、1947年、国連決議がパレスチナ分割決議を採択。パレスチナの地が、ユダヤ人とアラブ人の2国に分けられ、翌年ユダヤ人がイスラエルの建国を宣言しました。 しかし、アラブ諸国が決議に反発しイスラエルに攻め込みます(第1次中東戦争)。 戦争は続き、1967年の第3次中東戦争を皮切りに、イスラエルは国際法で認められていない土地まで占領します。事実上「パレスチナ」と呼ばれていた土地のすべてを統治下にしていきました。 1993年、アメリカとノルウェーの仲介で、イスラエルとパレスチナの間にオスロ合意が交わされます。パレスチナに暫定自治区を設置し、イスラエル、パレスチナの双方がいずれ共存することを目指すことが狙いでした。 和平が期待されるも長くは続かず、現在も断続的に紛争が続いています。 ハマスの台頭。 パレスチナでは和平派の人物がリーダーになりますが、2006年の議会選挙でイスラムの組織「ハマス」に負けてしまいます。ハマスとは、ガザ地区を中心にパレスチナの解放を訴えている武装組織です。 選挙に勝ったハマスは、ガザ地区を独自に支配するようになりました。その後、現在まで何度も衝突が起こっています。 2023年10月7日、ハマスがイスラエルへ大規模な攻撃を行います。イスラエルは報復作戦を開始。混乱が続いています。 以上。 続いて、杉原千畝。 動画検索→ NHKスペシャル、どんな民族でも僕は助ける、杉原千畝

2025年9月7日日曜日

日本人と軍隊、過去と今

前記事の自衛隊イラク派遣判決→名古屋高裁は08年4月17日、航空自衛隊がイラクで行っている空輸活動の一部を「武力行使の放棄を定めた憲法9条1項に違反している」と断定した。 原告が求めた派遣差し止めなどの訴えは棄却したため、勝訴した国側は上告できず、判決は確定した。 、、、 次の動画のなかでドイツ人が言うように、●過去と向き合うことにより、今や未来と向き合えると思う。番組ゲストのドイツ女性がいうように、なぜ亡くなったのか明らかにすることが 大切だと。 なので、前記事の自衛隊死者が亡くなった理由をですね、 その他の理由とはなんなのか? 自殺の人は遺書があったのか? 遺書にはなんと書かれていたのか? 遺族の意向により、できる限り政府は発表すべきと。 事実を明らかにせずに政策も何もない。 イラク派遣は安倍の意向により小泉が引き継いだものと思われるが、動画での小泉の発言と周囲の笑いは、狂っているな。 自衛隊をやめた人のなかに、●政府に利用される、、。 意味の理由があったが、その通り。 では動画検索→報道1930スペシャル、日本人と軍隊、いま見つめる戦後80年

自衛隊海外派遣(米軍支援)

2015記事→自衛隊員が戦闘行為に巻き込まれるリスクが高まるとか、後方支援を行う場所が戦場になるとは考えていない」。安保法制(戦争法案)で、自衛隊が米軍等への後方支援、つまり兵員や武器弾薬等の補給を行えるようにすることについて、安倍政権が福島瑞穂参議院議員の質問主意書に対して、12日の閣議で決定した答弁だ。だが、こうした安倍政権の主張が紛争地で通じるのか。具体的な事例から考察してみよう。 ○「現場で判断」する間もなく殺される 自衛隊が米軍等の後方支援を行っても、なお「リスクが高まらない」と安倍政権が主張する根拠は、「(現場の部隊長などが)人の殺傷や物の破壊行為が行われているか否かという明らかな事実により客観的に判断」し、「活動を一時休止、避難するなどして危険を回避する」からだという。しかし、「客観的な判断」する間もなく命を落とすことになりうるのが、紛争地の現実である。たとえば、陸自などが米軍の人員や物資を輸送する際、IEDの被害に遭う可能性が高い。IEDとは、手製の爆発物の総称で、イラクやアフガニスタンなどで、路肩にしかけられた爆発物が通りがかった米軍等の車両を吹き飛ばすことが多発したため、「路肩爆弾」とも訳される。実は、このIEDこそ、対テロ戦争における米軍にとっての最大の脅威だったのである。2001年から現在に至るまで、イラクとアフガニスタンで死亡した米軍関係者は6840人。そのうち、IEDによって殺された米軍関係者は2550人と、実に3分の1以上なのだ。また、イラク戦争では、ブラックウォーター社やKBRなどの民間軍事企業が、警備や輸送などを担うことが多かったが、2003年から2010年の間に468人の民間軍事企業関係者が死亡しており、その死因の中でも、IEDや輸送中の車列への攻撃が最も大きな割合を占めているのである。 ○報じられなかった陸自イラク派遣の実態 本稿を読まれている方々には「陸上自衛隊のイラク派遣では犠牲者が出なかったではないか」と思う方もいるかも知れない。イラクに派遣された自衛官のうち在職中に死亡者は35人であり、うち自殺者16人、病死7人、事故または原因不明が12人。「原因不明」が気になるが、少なくとも、戦闘の中で次々と自衛官が殺されていく様な状況にならなかったのは、それなりの理由がある。端的に言えば、陸自はイラクでは、ほとんど活動していなかったからこそ、宿営地の中に引きこもっていたからこそ、戦死者が続出する状況にはならなかったのである。 「自衛隊が修復している」という学校に自衛隊の姿は無かった。 陸自がイラク南部サマワに派遣されていた当時、筆者は「自衛隊が修復している学校」に取材に行った。だが、現場にいるのは、イラク人労働者だけ。「自衛官たちはいないのか?」と聞くと、「1日10分くらい来ることもある」と労働者らは言う。要は、地元業者に工事を委託しているわけだ。しかも、現場の労働者らは「業者が悪いやつで、必要な建材が届かない。ネコババしているのだろう」と言う。筆者が「なぜ自衛隊にそれを言わないのか?」と聞くと「勿論伝えようとしているが、自衛隊の通訳が、ちゃんと伝えてくれない。貴方がなんとかしてくれないか?」と訴える。このまま工事を進めれば、学校の壁が倒壊し、子ども達が下敷きになる恐れがあった。筆者が自衛隊側に事情を伝えた後、建材は修復工事現場に届くようになったものの、危ないところだった。 同様に、「自衛隊が給水活動を行っている」という村々を取材した時も、自衛隊の評判は悪かった。給水活動も、業者に委託しており、その業者の管理がしっかりしていなかったからだ。村によって水が届いたり届かなかったりの差が大きく、業者によっては、自分の村を優先したり、水を他のところに売ったりしていたからである。だから、「自衛隊が給水活動をしている」はずの村で子ども達は泥水を飲み、病気になっていたのである。 「自衛隊が給水活動している」という村で子ども達が飲んでいた水 なぜ、この様な状況になっていたかと言えば、地元に雇用をつくるという目的もあったのだろうが、それだけなら500人余りもの自衛官がサマワに常駐する必要はない。要は、米国のメンツを保つために陸自を派遣したはいいが、下手に宿営地の外で活動していると襲撃される恐れがあるので、極力、外出を控えたというところだろう。実際、サマワには、米軍のイラクからの追放を主張し、米軍との戦闘も行っていたサドル派も支部を持ち、自衛隊の駐留にも反対していた。筆者はサマワのサドル派メンバーらにインタビューしたが、会見は非常にピリピリしたもので、自衛隊に対して敵意をあらわにしていた。 今後、紛争地で自衛隊が米軍の後方支援を行うとしたら、イラクへの陸自派遣の時のようなやり方は通じない。兵員や物資の輸送は常に行う必要があり、ずっと自衛隊が宿営地に引きこもっているわけにはいかないのだ。しかし、輸送のために頻繁に道路を陸自の車両が行き来するならば、上記したようにIEDや襲撃の脅威にさらされることになる。場合によっては自衛隊員が誘拐され、殺害された挙句、その映像がインターネット上で出回ることになるかもしれないのだ。 ○論理破綻、詭弁だらけの茶番で、自衛隊を戦地に送るのか? 後方支援=兵員や武器弾薬の輸送が戦闘行為の一環であることを無視したり(関連記事)、国会質疑で「国連憲章に反する行為に対して、わが国が武力をもって協力することはない」と答弁したその直後に、米国の国連憲章違反の違法な戦争を擁護したり(関連記事)、参考人として国会で証言した憲法学者全員に「安保法制は違憲」だとダメ押しされたのに、憲法前文を持ち出して歪んだ解釈したり(関連記事)。そして今回の「後方支援でリスクが高まることはない」という答弁…。日本の安全保障のあり方については、必ずしも皆、同じ考えではなく、人それぞれの意見があることだろう。だが、安保法制をめぐる安倍政権の一連の主張はあまりに論理破綻が酷く、詭弁だらけで不誠実だ。このような茶番の果てに危険な紛争地に送られるとしたら、自衛官たちが気の毒すぎるだろう。 志葉玲 フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)

真珠湾攻撃の兵士

あと一年半早く降伏をしていれば、こんなにたくさん死なずに済んだ、の言葉、そのとおりだと。   ですから、原爆を落とされた日本人は、戦争を回避し平和を 保つ世界にする義務を、負っているのです。あの戦争も必然だった。なぜならこれから世界平和を実現するのは日本人の力が必要だからだ。検索動画→真珠湾の記憶、吉岡政光さんインタビュー

2025年9月6日土曜日

巣鴨プリズン、BC級戦犯

検索動画→私は処刑者として最もふさわしい者だ、母を失い志願して米兵を処刑

無茶

この事件も、必然だったのでしょう、、が、、。 衝突寸前の写真(産経ニュース)見ましたが、あまりに危険すぎます。 ダンプの運転手は、左の際から出てきた女性が見えていなかったのかも? 発進の合図を別の警備員から受け、自身による警戒が薄かったというか、まさか飛び出して来るとは? という感じではないでしょうか? この場所での運動には参加はしていないですが、見たことは ありました。 辺野古基地の運動同様平日毎日行われています。 毎日同じやり方のハズですが、、 この女性はそれを知らない人だったのか? 知っていれば自殺行為ですから。 自分が出るとダンプカーが止まる! とおもったのかも? もし止まっても一体それでどうなるのか? それで工事がストップするはずもない。 しつこいと、警察を呼ばれて業務妨害でしょっぴかれるだけ。 辺野古基地の座り込みでも、普段はしないけど熱い気持ちで本土から来た人が、警察の●どきなさいどきなさい!。 に、いつまでも抵抗して、、それはたくさんの人がやるんですよ、その後に椅子ごと警察が抱えてどかせるのですが、、 そこまでは、普通なんですが、、その時に、警察になんかすると、、、しょっぴかれて行きます、女性でも。大人しく椅子ごと運ばれるのがルール。 この、●椅子ごと運ばれる。は、運動家たちの決まりだった と、後で聞きました。わたしは知らなくて、、●どきなさい! ではどきませんが、初めての日に、警察が来て私の足首を掴んだんですね!そこで●足首なんか掴まれるんやったら自分から どくから。と、椅子をたたみ持って退く。 毎回それでやってました。 この足首つかみには、ゾッとした思い出がある。 高校のバスケの練習試合で、近所の高校の体育館で練習してた時、、そこの体育館には、床に近い位置に、小さな空気窓があったのだが、誰もいないのに、いきなり両足首を掴まれた。 小窓から外を見ても誰もいない、逃げたのだろう。 外のグラウンドにいた、その学校の男子生徒だと。 だから、、警察に椅子ごと二人がかりで運ばれるなんか、 イヤなんですよね。 でも本来はこれをやらないといけなかったらしいが、、 コロナからは、自由意志!となったらしい。ホッ!。 で、ゲートに並んだ椅子が無くなると次は、行進の時間。 反対の言葉を唱えながら。 行進終えると、ゲート前にズラリ並んだ警備員と向かいあわせに、ズラリと並んだ運動家たちがシュプレヒコ一ル。 わたしも大声で叫びましたよ、たぶん一番大きい声。 警備員と警備員の間からペットボトルを向こうに向け、、 投げてませんよ、降るんです。 向こうにいる防衛局の職員に向け、●防衛局は帰れ~! 言いながら。 心のなかでは、●クソ!警備員ら、なんでこんな仕事してんねん!。 と思うと、警備員の顔キワキワにペットボトル何度も振りましたが、警察には止められませんでしたね。 危険なことはせん!と、わかっていたのかも? このシュプレヒコールのあとに、運動家はゲートの両脇に寄り、入ってくるダンプカーを迎え入れる?わけです。 わたしなんかは、 ダンプのうんちゃんに、バカデカイ声で、 ●カエレ〜と、叫びまくる。 毎日一人の男性ウンチャンが、窓から私に怒り顔で叫び返して来た。  まあ、これがイベントの一連でした。 今思うと、よくあんなことやったなあ。 超本気で頑張ったなあ、喘息なのに、なんて偉い!と。。。 亡くなった警備員は、米軍側、米軍基地造成のため、防衛局が 雇った人ですね。  身の危険をかえりみす、女性を助けています。 とっさに動ける瞬間判断は素晴らしい。 この事件で一体、だれがどのように、学びに変えるのでしょうか? この場所から土を辺野古基地に運び埋め立てをするわけです。  元隣人の弟も、以前この仕事をしていたのですが、、 土をトラックに積む作業中に突然意識を失い、別のトラックにあたり止まった。   誰も命に別状はなく、弟も意識を取り戻した。 怖さからしばらく弟は運転をやめていたそうですが、しばらく して、また同じ仕事をすると言い出し、、 隣人たちが、●次同じ仕事したら、もう命ないと、ユタさんに 言われたでしょう。 と制止し、別の建設の仕事をしていると。 当時30歳くらい。 沖縄ではユタ半分医者半分という具合です。 ダンプカーの排気とか、 ひどいですので、心臓に来たのかも? では、事故ではなく事件とされたこの記事を→ 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設に抗議していた70代女性を制止した警備員が昨年6月、ダンプカーに巻き込まれ死亡した事故で、沖縄県警が重過失致死容疑で女性を立件する方針を固めたことが8月31日、分かった。徐行するダンプカーの前に出るという行動に出た女性に重い過失があると判断したもようだ。県警は起訴を求める厳重処分の意見を付け、近く書類送検する方向で詰めの捜査を進めている。 【防犯カメラの映像】ダンプの前に飛び出した女性を警備員が必死に止めようとする。 事故は昨年6月28日、土砂搬出港の桟橋前の路上(名護市安和)で発生した。警備員の宇佐美芳和(よしかず)さん=当時(47)=と女性にダンプカーが衝突。宇佐美さんが死亡し、女性も大腿(だいたい)骨を折るなどの重傷を負った。 その後の調べで、現場付近の防犯カメラに事故当時の状況が残されていたことが判明。産経新聞が入手した映像には、宇佐美さんの後方から足早に近づいてきた女性がダンプカーの前に出て、制止しようとした宇佐美さんが女性とダンプカーの間に割って入る形となり、そのままひかれてしまう様子が写っていた。 県警は映像の解析を進めるとともに事故現場で実況見分を行い、事故の予見可能性や結果回避可能性なども慎重に検討。その結果、女性に重い過失があったと認め、刑事責任は避けられないと判断したとみられる。 県警は自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)容疑でダンプカーの男性運転手を、業務上過失致死傷容疑でダンプカーに発車の合図を送った交通誘導担当の男性警備員を書類送検する方向でも調整している。

2025年9月5日金曜日

工藤艦長が果たした役割

前記事以外にも、日本海軍が敵兵を助けていた事実を記述した記事が見つかりました。 他の記事も、平成天皇がイギリス訪問する前に、イギリス国民が謝罪と賠償を日本に求める声が上がったとか、、。 工藤館長は、日本の戦争最高責任者が、やらないやれない 事を、前倒しで果たしていたということでしょう。   このおかげて、イギリス人の反日感情が和らいだのですから。 それから、、記事は平成天皇の時代に書かれたものですが、 最後のほう、筆者が、工藤館長の行動を否定的と捉えたことがわかる文章がありますが、、、 それは、ただ単に、●目に見えるもの、いわゆるどれだけの 敵兵を殺し、戦状を日本優位に導いたか?。 というものさしだけで測った考えによるものであり、 精神的な面を完全無視した考えに陥っていると察します。 真に大切なものとは、魂の成長。 例えば、多数のイギリス兵を救ったイカヅチは、 このどれくらい後かはわからないですが、工藤館長が異動で イカヅチから去ったあとに撃沈され、部下たちは亡くなります。   しかし、肉体は亡くなりますが、魂は工藤の元で、すでに  成長をしているのです。  それだけのことを、工藤により学び体験ができたということ。 その魂たちが、別の肉体を持ち、地球はたまた別の星に転生をするそのスタート時点位置、、いわば魂の位が、おぎゃあと産まれた時から、そういう学びや成長をせずに死んだ魂とは、全く違うわけです。 自分自身をかんがみても、それは間違いないです。 同じ親から産まれた三人兄弟ですが、、、 子供のころから違っていました。 大人になり、高齢となった今も全然違う生き方です。 姉や兄は長年同じ職場で勤め上げ、、 地道はいいのですが、、 姉の旦那も含め、  まあ、いわゆる退職金とかもしっかりとあり、 老後生きてゆくお金の心配は無い人らですね。 わたしはと言えば、、 高校出て2年少しで三菱電機の経理部をやめ、 眼科でバイト、やりがいもないので先輩の真似をして 三菱の仕事いきながら土日はレストランで働いてみたり、 習い事でテニスやエレクトーンをやっても、 面白くない、、打ち込めるものが無い、、 結婚して、自分が仕事で売り上げ上げるのが面白い時期あったが、、毎日が戦いくらいやりがいはあったが、、 うちの会社が無くても社会は成り立つと思うと、、 自分しかできない、やり方をして 自分しかできない事をしたかった。 それが離婚後に始めた動物愛護活動でしたね。 で今は、、こういうことを書いてます。 何が言いたいか? 人間として産まれた以上、 魂が心底喜ぶことを選択すべきと、いうこと。 だからイカヅチがあの場面を発見したのも、偶然でなく必然。 すべての出来事は天、神からのためされごと。 その時に、最高の判断力で全力を発揮する。 これにつきますね! そしてそれこそが ●己との闘いに勝つ、ということ。 闘う相手とは、自分自身なのです。 そのためには、常日頃から 自分自身に向き合う!という作業こそが、肝心なのです。 では記事をどうぞ、前動画のイギリス兵フォール、戦後外務省に勤務した彼も、工藤同様、イギリスと日本の橋渡し役を担うことに。→ 今上天皇及び后の両陛下が今から8年前の平成10年(1998)5月にイギリスを訪問されたときの事。当時、イギリス国内では天皇の訪英に対する反対運動が生じていました。 その中心となっていたのが、戦時中に日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜として受けた非人道的な処遇(捕虜への食事に木片の腐ったの=実は牛蒡ごぼうの事=があるとか―)への恨みに対する抗議や謝罪を要求しようというものでした。 そうした世情の最中、ある投稿が『タイムズ』紙に掲載されたのです。それは、元海軍中尉サムエル・フォール卿が寄稿したもので、「元日本軍の捕虜(の1人)として、私は旧敵と何故和解する事に関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語ったのです― 太平洋戦争勃発に伴い、日本は英領マレー連邦に侵攻を開始し、昭和17年(1942)2月15日、日本軍はシンガポールを陥落させます。 イギリスの重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、インド洋のコロンボへと脱出を図るために途中、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで米・英・蘭・豪の連合国艦隊(ABDA艦隊)に再編成されます。 昭和17年(1942)2月27日から3月1日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖でジャワ攻略の日本軍艦隊とABDA艦隊との間に海戦=スラバヤ沖海戦(ジャワ海海戦)があり、ABDA艦隊艦船は15隻中11隻が撃沈してしまいます。 そうした最中の3月1日、先ず「エクゼター」が撃沈されます。「エンカウンター」も単独航行し続けますが、ついに撃沈されてしまいます。 その「エンカウンター」にフォール卿は砲術士官として乗船していました。 フォール卿たちは、「エンカウンター」の艦長と共にボートに乗って脱出しますが、そのボートも小さな砲弾が着弾して破壊され、フォール卿は艦長共々ジャワ海に飛び込みます。 首から上を出した状態で、浮遊木材に5~6人で掴まり、近海の沿岸部に在るオランダ軍基地からの救助を待っていたそうです。(すでに連合国側の制海権ではなくなっていますね) 周辺海域には同じ様にジャワ海に飛び込み漂流中の「エグゼター」の乗組員や「エンカウンター」の乗組員たちが約21時間もの時間を漂っています。 そんな情況下の翌2日、そこに偶然通りかかったのが、日本海軍の駆逐艦「雷いかづち」でした。 「雷」は漂流者たちに砲を向けつつ接近してきます。フォール卿は「日本人は非情」という先入観があったため、固唾を呑んで見つめつつも、機銃掃射を受けて死ぬんだな、と死を覚悟していたそうです。 実のところ、前日にスラバヤ沖の周辺海域で日本軍の輸送船がアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没するといった被害に遭っていたのです。 何時艦船の魚雷攻撃を受けるか分からない状況では、国際法上、海上遭難者を放置しても違法ではありません。 自分たちは見捨てられるのだろうとフォール卿をはじめ漂流者たちは考えた事でしょう。 しかし、その一方で、助かるかもしれないという一抹の希望もありました。それは― 昭和16年(1941)12月10日、マレー沖で日本海軍航空部隊によるイギリス東洋艦隊への攻撃でイギリスの最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が撃沈された(マレー沖海戦)際、駆逐艦「エクスプレス」が海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めるのですが、日本の航空部隊は一切妨害する事なく、それどころか手を振ったり、親指を立てて、頼むぞ、頑張れ、といった仕草を送り、その救助活動を見守りました。 更には、救助活動後にこの「エクスプレス」がシンガポールに帰投する際も、日本機は上空から視認しただけで、攻撃を差し控えましたのです。 そして前日の3月1日には、撃沈されたイギリス海軍重巡洋艦「エクゼター」の乗組員376名を「雷」の僚艦「電いなづま」が救助していたのです。 この折も「エクゼター」の士官たちが兵員に対し、「万一の時は日本艦の近くに泳いで行け、必ず救助してくれる」と話していたのだそうです。士官には「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が頭を過ぎったのでしょう。 そんな思いが頭を過ぎっていた漂流者たちに「雷」は近付いてきたわけです。 ― ◇ ◇ ◇ ― 海軍中佐工藤俊作艦長率いる駆逐艦「雷」は、見張りによって「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」「漂流者400以上」と報告を受けていました。 しかし、危険海域なので、「(敵の)潜望鏡は見えないか」と敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じます。 状況から見て、国際法上、海上遭難者を放置しても違法ではないわけですが、工藤艦長は敢えて救出の命令を下したのです。 「雷」は直ちに、「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、傍受されかねない状況を度外視して「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」と無電で発しました。 「雷」の乗組員がロープや縄梯子、竹竿を差し出して漂流者たちを救助しようとしますが、彼らは誰一人として誰も上がって来ようとしません。 彼らは、重傷者からの救助を最優先しろ、と合図を送ってきました。後年、「雷」の乗組員の方はそうした彼らの行動に「ジョンブル精神」を見たと誇らしげに仰っていたそうです。 この「ジョンブル精神」、簡単に言えば、不屈の精神を持つ本当の意味でのイギリス人という意味で使われます。似たような響きに「ゲルマン魂」とか「大和魂」、「ヤンキー魂」なんかがありますよね。 余談ですが、明治45年(1912)4月14日深夜から翌15日未明にかけて起こった豪華客船タイタニック号沈没事故の悲劇の際、一番多く死亡したのがイギリス人紳士たちだったそうです。 イギリス人紳士たちは沈み行く船の上でも、「レディーファースト」を重視し救助用ボートで順番待ちをしていたのです。死に瀕した場面においても彼らはジョンブル精神が発揮したわけです。(逆に、アメリカ人は我先にと人を押しのけてボートに乗り込んだそうですよ) さて、浮遊木材にしがみついていた漂流者たちは最後の力を振り絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着きますが、中には「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや安堵感から力尽きて水面下に沈んでいく者もいます。甲板上の乗組員たちも、涙声を嗄らしながら「頑張れ!」と叫び勇気付けます。 こうした光景を見兼ねて何人かの乗組員は自ら海に飛び込み、力尽きてしまった者あるいは重傷者らの体にロープを巻き付けて抱え上げたりしたのです。 こうなると、敵も味方もありませんよね。同じ海軍軍人同士の友情が芽生えるのも不思議ではありません。 乗組員たちは、甲板上で無事に救出できた兵員たちの身体に付いた重油の汚れなど布とアルコールで拭き取って清めてあげました。 また、新しいシャツや半ズボン、靴なども支給し、貴重な飲料水の他に温かいミルクやビール、ビスケットなどの食糧も配られました。飲料水の消費量は実に3トンにも上ったとか― その後、救出された兵員のうち、士官たち21名が前甲板に集合を命じられました。何事か不安がっていると… 艦橋から工藤艦長が降りて来て士官たちに端正な挙手の敬礼をし、続いて流暢な英語で次のように語り掛けました― “You had fought bravely. Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.” (諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。) 「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、例え遙か遠方に1人の生存者が居ても、必ず艦を近付けて停止し、乗組員総出で救助したと云います。 結果、422人もの人命を救助した事になります。「雷」の乗組員約150名の3倍近い人数です。 翌日、救助された兵員たちは、パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また艦橋ウィングに立つ工藤艦長に敬礼します。 工藤艦長は、兵員たち1人1人に丁寧に答礼をしていたそうです。 ― ◇ ◇ ◇ ― さて、一体この駆逐艦「雷」の艦長・工藤俊作海軍中佐とは、一体どのような人物だったのでしょう? 工藤俊作海軍中佐は山形県東置賜郡屋代村(現高畠町)出身で、大正9年(1920)、海軍兵学校に第51期生として入学します。 その時期の海軍兵学校の校長が鈴木貫太郎だった事もあり。工藤艦長は鈴木貫太郎の影響を強く受け継ぎました。 鈴木貫太郎が校長の時期は徹底したジェントルマン教育が実践されたようで、厳しい規律の中にも明朗さを失わせず、幅広い教養を持たせようとしたカリキュラムでした。 そもそも、日本海軍創設以来、イギリスがそのモデルにあったわけで、創成期の頃イギリスに留学していた服部潜蔵海軍大佐などはジェントルマン精神を実践していた人物として知られています。 また、工藤館長の性格の一端を窺わせるエピソードとして、上述の敵兵救助の際、蘭印攻略部隊指揮官・高橋伊望中将率いる重巡「足柄」に「エクゼター」と「エンカウンター」の艦長を移乗するよう命令がありました。 その際、高橋中将は双眼鏡で、「足柄」の艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う兵員の余りの多さに驚愕します。 この時、第三艦隊参謀で工藤艦長と同期の山内栄一中佐が高橋中将に「工藤は兵学校時代からのニックネームが“大仏”であります。非常に情の深い男であります」と言わせているんですよね。 ☆☆ 以上のエピソードをフォール卿が『タイムズ』紙に寄稿。多くの賛同があって、反日感情は薄れていきました。 そのフォール卿が平成15年(2003)10月19日、来日しました。フォール卿来日の目的は、叶う事なら工藤艦長の墓参をし、遺族に感謝の意を表明したいという積年の思いを遂げる事でした。ところが、その願いは叶わず、帰国されます。 フォール卿から依頼を受けていた惠隆之介さんは翌16年(2004)12月に工藤艦長の墓所の所在と遺族を見つけ出します。 遺族の話によると、工藤艦長は昭和54年(1979)1月12日、享年78歳の生涯を閉じていました。 戦後、工藤艦長は暫くは故郷の山形県で過ごしていましたが、奥様の姪御さんが開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移り住んだそうです。生前には軍人時代の話は何一つ家族に話さなかったようです。まさに工藤艦長は“黙して語らず”の余生を生きたんですね。 フォール卿は、改めて平成20年(2008)12月7日に再来日され、工藤艦長の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えられたそうです。   ― ◇ ◇ ◇ ― 最後に、こういう話は戦争のない時代では美談になるのでしょうが、いざ戦時中ともなると、ただの命取りになりかねない行為にしか見えませんね。日露戦争時の海軍軍人である秋山真之は近代戦争では人道行為こそ滅亡の遠因、命とりな行為となる―と言い切っています。 秋山真之は米国留学時にヒントを得て海軍戦術の研究に取り組み、中国の『孫子』や『呉子』、その他世界各国の戦史を紐解いたそうです。 その中で秋山は「戦術とは戦いと同様のものであり、戦いには戦術が要る。戦術は道徳から開放されたものであり、卑怯も何もない」、すなわち、戦場という複雑かつ過酷な状況下で目的を遂行するためには、その時々の道徳や情とは切り離すべきもの、と捉えていたようです。 それ故に、日本海海戦時にウラジオストック艦隊の追跡を断念し、撃沈したロシア船「リューリック」の乗員救助にあたった司令長官・上村彦之丞を次の様な言葉で批判しています― 「戦略目的を犠牲にしてまで敵の漂流兵をすくうのは、宋襄の仁である」 「宋襄の仁」とは、中国・春秋時代の紀元前638年に宋の襄公と楚の成王が戦った泓水(おうすい)の戦いでの際、宋軍の側近が楚軍の布陣がまだ整っていないうちに先制攻撃しようと進言するが、襄公は「君子は人の困っている時に苦しめてはいけない」と言って進言を退け好機を逸したため、遂には楚軍に敗れ、宋は楚の影響下に置かれる事になってしまった故事を云い、この事から、敵に対する不必要な情けや哀れみをかけたために、かえって酷い目に遭う事を「宋襄の仁」と呼ぶようになった、と伝えています。 まともに戦って勝てる相手ではないのに、正々堂々と勝負しようとする考え方など、言語道断です。こうした考え方は、全く戦争という緊張から遠ざかってしまった"平和ボケ"してしまった姿が言わしめた出来事なのかもしれませんね。

2025年9月4日木曜日

人間力、工藤俊作

みなさんは、「人間力」と聞いて、何をイメージするでしょうか? お金を稼ぐ力ですか? それとも道徳心のことでしょうか? 道徳心、人の道をゆくかぎり必要な観念とは? 人間力、、人の道を全うする、それは、無言の教育を他に施すことができるチカラとも、いえると思います。 この場に立ち合った人のみならず、こうして見ず知らずの人間にまで後世に渡り教育を施して下さる。 先日、戦艦大和の動画内での言葉 ●昭和の良い部分と悪い部分。。。 これは、おおいに個人に左右さらせれると‥ 武士道魂、本物の大和魂とは、、、 こういうものだと。 動画検察→海の武士道、英米が脱帽、国際感情を変えた工藤俊作館長の感動

生きざま

高齢でも、できるだけ自分の力で生きることを選択。 硫黄島で亡くなった人や遺族のための活動を→初告白、硫黄島の戦い、上官命令で一人帰還、玉砕前になぜ

2025年9月3日水曜日

一億総特攻のさきがけ、戦艦大和

教育とは、恐ろしいもの。 特攻隊がかっこいいとか、水兵がかっこいいとか。 アメリカが日本への石油の輸出完全ストップをしたことも、 日本がアメリカと戦争をするきっかけという話もありますが、 石油に関して他の手立てを試したわけではなかったと思います。 国の支配に従い他国と戦った者、日本共産党などのように、 国の支配に背き、支配する国と戦った者たち、、、  敗戦は、必要だったのかも知れない。 あの軍国主義日本が続いていれば、恐ろしい。 戦争をしなければアメリカの植民地になっていたのかも? まあ今も実質そんな感じですが。 そんな先人たちが残したもの。 その、「負の遺産」を、「正の遺産」にする方法もある。 動画の八杉さんが最後にいわれる言葉。 ●あれ以来うかうかと生きて来ていない ●うかうかと死にゆく気持ちもない。 、、 これなんですよ。 だからこの人格形成なのであり、 それが、ひいては【生き切る】と、いうこと。 敗戦してよかった。 人が人たる意味。 戦争をやるということは、 どれだけの命、自然、環境ら、地球、、 すべてを失うことなのだということ。 絶対に戦争をしない! これをわたしたちが実行に移すことは、 すべての先人たちのカルマや後悔の念を解き放つことになる。 それこそが、戦後生まれのわたしたち全ての生命の 使命ではないのか。 手を合わせ拝むことが、亡くなった人を弔うことではなかろう。 本当に弔うというのは、 生きて地球に立つ私たちが使命を成し遂げることにより、 叶わなかった先人たちの後悔の念を解放に至らせると いうこと。 動画検索→戦艦大和の最期、乗組員八杉康夫の証言

向き合う

この記事は就活についてですが、人生過去を探って行き自分に向き合うためには、こういうやり方もとても良いと思います。 やはり、表面上の会話が面白くないというか、、、 いや、わかっていることを口に出してほしくない、わたしが 質問をしたのは、その奥の答えが聞きたかったからだ、と 思ってしまうことがよくあり、、話をするのがいやになって しまうから。 思慮深い人間。 やはり、自分なりの哲学を持っている人がいい。 →「この人は賢い」と感じられる人 就活の面接では、学生が口にする言葉は一見よく似ていて、多くの人が「リーダーシップを発揮しました」「問題解決力を培いました」といった、聞き慣れたフレーズを口にします。 しかし面接官は、同じ言葉でも、ある学生には「この人は賢い」と感じ、別の学生には「表面だけ取り繕っているのかも」と感じるのです。その差はいったいどこにあるのでしょうか。 本当に賢い人と実は浅い人、たった一つの違い 結論から言えば、面接官が見ているのは知識の量や話の派手さではありません。違いを生むのは「考え抜いた跡があるかどうか」です。 たとえば、ニュースで仕入れた知識を並べる学生は、一見すると勉強熱心に見えます。 「AIの未来が重要だと思います」「御社は成長産業だから志望しました」といった発言も、表面上は立派に聞こえるでしょう。 しかし、面接官が「具体的にどんな経験からそう思ったの?」と問いかけると、急に言葉に詰まってしまう。これは“賢そうに見えて実は浅い”典型例です。 一方で、本当に賢いと感じさせる学生は、どんなに小さな経験でも自分の頭で咀嚼し、そこから得た気づきを筋道立てて語ることができます。 アルバイト先での失敗談や、部活での人間関係の悩みのような“平凡な体験”でも、「なぜそう考えたのか」「どう工夫して変化したのか」という思考のプロセスを示すことで、面接官に印象を残します。 面接官に賢いと思われる学生がやっていること ここで大切になるのは、“問いを持てるかどうか”です。 浅く思われてしまう学生は、あらかじめ用意された「正解っぽい答え」を語ろうとします。「御社で成長したいです」「社会に貢献したいです」といった言葉は聞こえはいいものの、誰が言っても同じに聞こえてしまいます。 一方で、面接官に賢いと思われる学生は、経験を通して自分なりに「なぜ」を問いかけています。たとえば授業に遅刻したとして、遅刻の理由を考えるときに、こう考えるのです。 なぜ授業に遅れたのか? →朝起きるのが遅かったから なぜ朝起きるのが遅いのか? →夜更かししたから なぜ夜更かししたのか? →スマホを触っていて寝る時間が遅くなったから なぜ夜にスマホを触ったのか? →やることがないからスマホで動画を見ようと思った 『脇役さんの就活攻略書』p.51より 普通だったら、「夜更かししたから早く寝よう」などの解決策で終わるところを、「夜更かししたのはやることがなかったからだから、夜はスマホのロックをかけて読書しよう」などと根本的な解決策に辿り着くことができます。 こうしたなぜなぜ分析をすると、面接官は自分の頭で考えられる人という可能性を感じるのです。

2025年9月2日火曜日

先人への恩

戦時中、堂々と反戦を掲げて支配者と闘った者たち。  その先人たちのおかげで、今のわたしたちがある。 女性を動物以下の扱いに処するモノたち。 捕まると拷問や死に処せられる覚悟。 それでも支配にひれ伏すわけにはいかない。 自分に正直に、自分がすべきことをもって、非道な権力者との 闘いに打ち勝つことは、自分自身に向き合い、自分自身に打ち勝つこと。 拷問を受けようが殺されようが、敗戦でアメリカ軍により 解放され、事実上、日本の国家支配権力から解放。 その先人たちの激しい闘いがあったから、 私達の闘いは、静かなる戦いで済んでいる。 日本国家との戦い。 動画検索→暴走した憲法、治安維持法、制定100年、屈辱的な拷問受けた

2025年9月1日月曜日

日本共産党

共産党とは言いますが、中国共産党とは意味合いが全く別です。 例えば日本の自民党は、自由民主党ですが、自由や民主は名ばかりで、中身は逆なのはわかりますよね? 中国共産党は、、共に生産と書きますが、支配の上に成り立つもの、平等ではない!と、いうこと。 しんぶん赤旗より→ 2025年8月20日(水) 共産党と「赤旗」 新たな期待 排外主義反対「励まされた」 若者「入党したい」  参院選の結果、自民・公明両党が過半数割れに追い込まれた一方で、極右・排外主義という危険な潮流が台頭しました。大きな歴史的岐路にあるいま、全国から「しんぶん赤旗」の日本共産党本部への申し込みが相次ぎ、「入党したい」と党員に声をかける若者たちが現れるなど、党への期待と関心が高まっています。 申し込み 1.8倍  8月に党本部に寄せられた「しんぶん赤旗」の申し込みは、17日までで昨年8月の1・8倍です。申し込んだ人のコメントを見ると―。  「参院選の結果に危機感を覚え、共産党を具体的に応援したくなった」(東京都)「参政党の参院選での結果は、外国人の住民として怖いです。日本の政治を知りたいです。『赤旗』の報道は良いと聞いています」(鳥取県)「異常気象に危機感でいっぱいです。資本主義による自然破壊が原因だと考えます。共産党がどのように取り組んでいるのか知りたいです」(神奈川県)「自民党の裏金問題や、各種差別問題など、他の新聞社ではあまり取り上げない記事をいち早く取り上げると聞いたので」(静岡県)など、極右・排外主義の台頭に危機感を持つ人や、差別反対をかかげて参院選をたたかった日本共産党に希望を見いだす人、新しい政治を模索する人たちの声が続いています。幹部会決定(3日)は、「いま大きく打って出れば、読者拡大の飛躍をつくる条件が広がっている」と指摘しています。  「私、日本共産党に入党したいんです」。1日、千葉県船橋市で宣伝していた金沢和子党市議は29歳の青年に声をかけられました。椎葉寿幸党西部地区委員長を交えて7日、青年の思いを聞くと「参政党が議席を伸ばし、日本がどうなるのか不安。参政党は言動が軽い。『核を持った方が安上がり』と簡単に言ってしまう。排外主義に反対する共産党に励まされました」「裏金政治の自民党に立ち向かう政党がなくなったら困る」と話しました。青年は綱領や「入党のよびかけ」を受け取り、16日、青年支部の党員のよびかけに応え、入党を申し込みました。 高3 本部訪ね  14日、党本部を「日本共産党の平和主義と社会主義に共感している」と話す首都圏の高校3年生(18)が一人で訪ね、党本部の職員とロビーで話をしました。7月に日本共産党参院候補の街頭演説を聞きに行ったことがきっかけで、民青同盟に加盟したばかり。「ソ連は社会主義じゃない。本来の社会主義が人類の未来には必要です。入党しようかと思って来ました」と語りました。  『資本論』を途中まで読んだが難しくてわからなかったと言う高校生に職員が、志位和夫議長の『Q&A いま「資本論」がおもしろい』を紹介すると「読んでみたい」と購入。30日の田村智子委員長と生き方について語り合う「高校生サマーセミナー」への参加も申し込みました。  参院選でボランティアに参加した人も入党しています。10日に入党した東京都の20代は、「入党のよびかけ」を読み「労働時間の短縮をぜひ実現したい。支部のメンバーと一緒に活動して、社会を変えていけるように頑張りたい」と語りました。