2017年7月11日火曜日

『生活』

『生活』とネットで検索してみました
文字通り
『生きる活力』に関することが出てくるのか?
と思っていたら

深いことが出てきました


生活とは基本的に、命をつなぎ活動することであり、また生きながらえるために行う様々な活動である。 人は生き続けるためには、少なくとも、何らかの栄養を取らなければならず、(一般に)身体に何かをまとうことで体温を保つ必要があり、また野の雨や風をしのげる場所で眠りをとることを必要とする。つまり食べること、着ること、住まうことである。日本では、そうした生活の基本を漢字で簡潔に表現しようとする時は「衣食住」(いしょくじゅう)などと表現する[注 1]。「衣食住」の基本は、人が生活していく上で必要な、食(食事)、衣(衣服)、住(居住、雨風をしのげる寝場所)の確保である。

人類の歴史を俯瞰して見ると、実は、人類はその歴史の90%以上、野外での生活(=キャンプ)をして生きてきた[3]食べるものを得るために狩りをしたり木の実などを採りまたをし、動物のを身にまとい、洞穴や樹木の陰で雨風をしのぎ眠り、新たな獲物を求めて移動を繰り返してきた[3]。(人類学ではこうした人類の社会、生活形態を「狩猟採集社会」と言う。)人類は自然界(山や野や海)に生きている動物や植物を食糧とし、またそれをほとんどそのまま(あるいはわずかに加工して)衣類として用い、自然の地形や樹木等をそのまま活かして眠る場所を確保し、そのように生活してきたのである。そうした一連の行為は、近・現代人が考えるような「苦しみに満ちたもの」というよりは、大自然の生命力を讃えたり、その恵みに感謝したりする行為であった[注 2]

その後、人類の中に農耕をする者が現れると、農耕人(民族)たちは(その性質上)土地を占有するようになり、狩猟人(民族)たちを排除しようと暴力をふるってきた歴史がある、と指摘している学者が幾人もいる。また農耕がおこなわれるようになって、他の者が栽培・収穫したものを奪って自分のものにしてしまう者も現れるようになり、それによっても貧富の差が広がりはじめた、と指摘している歴史学者も多い。貨幣の使用も、さらに貧富の格差をもたらしたという。

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これを読むと
狩猟生活のころには
自分たちが必要なだけを
他の動物や魚・植物の命を奪っていたのだけれど

農耕生活になってからの方が
発達?した脳みそで
ずるいことを考えるようになってしまったのだな・・
そして
●自分の土地

という枠決めをしてしまい
そうすることで
今度は
●自分の土地を広く持ちたい

という欲望
そして
●自分の金をより多く持ちたい
●自分の子孫に多くの金を残したい

など欲望は尽きることなく

ずるさが脳みそを支配するようになってゆく・・

これが
『科学が愛を超えてしまった』時

なのでは
ないでしょうか

地球全体でみて
とうに
『科学が愛を超えた』わけですが

それは
地球に生きる人間
個々人たちのなかの
『科学が愛を超えた』

ということにも
絶対としてなると思いますが・・・

このブログをみてくれている方には

●『愛が科学を超えている』

方も
おられるのではないでしょうか

地球全体として
●科学が愛を超えてしまった時に

地球自体がバランスを失うようです

●自分のお金
●自分の土地
●自分の家
●自分の車
●自分の家族
●自分の犬やネコ

自分の~~
という枠決め

さまざまな物欲が
科学の進歩?とともに
膨れ上がる

科学=化学
それ以外
何者でもありません

真の科学
とは
分野に手を出さないこと
なので
科学という文字は
本来成り立ちません

科学はかならず
学者により
化学の域に入ります

科学におぼれ
愛を亡くし
物や金におぼれてゆく

多くのイルミナティ人間の波に

飲み込まれ
自分もイルミナティ人間と
化して生きて死んでゆくのか?

孤独でも
心身が疲れ果て
死ぬほど苦しくても
自分のプライドとポリシーをもち
生きて死んでゆくのか?

違いは
ただ
それだけのこと
です。

そして
その違いが
地球の違いに
あらわれてきます

結果は必ず
目に見えて現れます。

そして
いずれ
やっと宇宙の仲間入りを
無事に果たせる地球となるように
仕組まれています

人類のずるさ
を超えて
また
愛が科学を超えるとき

現在も
愛あふれる人が増えてきており
その人たちが
地球のアセンションをひっぱっていく

人々の魂のあり方
が試され
それが結果として
出てきている
なんとも
壮大な
意識の時代への
幕開け
気がします。



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