2022年8月9日火曜日

うちの

実家は神戸市の田舎。 父親は長男でないから、結婚するときに本家の近所に親から土地を譲り受けて、大工だった父の兄が、家を建てた。宗教は真言宗だったが、本家でないから、 仏壇はなかった。 皆でご飯を食べる居間の奥に、もう一つ和室が。 そこが●神の間(かみのま)と呼ばれていた。 床の間があって、床の間には、●天照大神の掛け軸が。そしてその部屋には、美智子さんと旦那(平成天皇)の、若い頃の写真が、額に入れられて飾ってあった。昭和天皇の時代に、なぜ美智子夫妻の写真なのか?は、わからない。 子供の頃からそういうのを見て過ごし、神の間という名前から、神聖な部屋?な気はしていた。 今考えると、大日本帝国憲法で植え付けられた、●天皇を神のようにあがめる、、みたいな雰囲気から、 神の間に美智子夫妻の写真があったのかも?? その後その高いところには、私達が活躍した部活の写真やら、父が消防でもらった大量の表彰状がかざられていた。 まるで表彰状もろたら飾らなあかんもん!みたく、ところ狭しと、、 で父が、しんで、その部屋の押入れを改造して仏壇を作り母もしんで、、 位牌が飾られる。 いらんのよね!美智子夫妻写真も、表彰状も、部活写真も!! 位牌も!! 母がしんでまもなく、わたしが実家に住み、 化学物質過敏症のわたしは、ロウソク線香もだ目やから、なんもせんはもちろん、兄やあねにも、うちに来てロウソク線香されたら困る!言うたら、兄貴が位牌を もって帰る!と。 仏壇動かす際に、真言宗の坊さんが来て、ロウソク線香されたら困る!言うたら、兄貴が坊さんに聞いて、 仏壇に塩もるだけで位牌動かしてええらしく、もって帰った。 何でも捨てていたわたしをみて兄貴が、 他の部屋に置いてあった掛け軸の入れ物を指差して ●お前コレほかすなよ!たっかい漆の掛け軸入れやねんから!言うから、●ほんならこれも掛け軸ももって帰っていらんから!言うともって帰った。 スッキリしたわ〜神の間、なんもない。 ちなみに 床の間の土壁を猫のハ一トが爪とぎして傷(笑) わたしには動物の命のほうが、大事じゃー 兄貴は位牌やら仏さんとかにこだわるくせして、 母親の口座に振り込まれた父の遺族年金を、使い込み、 していたのよね〜 なんぼ位牌やら遺影やら大事にして、ロウソク線香上げたかて、 神はみとる!先祖もみとる!いつか、バチあたっからなあ〜〜 楽しみしとけよ!!

これよ

コレ!この、大日本帝国憲法が、天皇を頂点にもって行った、まるで天皇を神のようにあがめさせて、 天皇の指示により開戦させ、国民に●天皇の命令は絶対なもの!という精神を植え付けて、●お国のために!という、自己犠牲精神を、作り上げていったのだ。そして終戦後に、日本国憲法が制定され、それにより天皇は象徴となり、単なる日本のシンボル!と→明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。 この憲法のもとでは、天皇が国の元首として統治権を総攬(そうらん)しましたが、法律の範囲内で、国民は、居住・移転や信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由、信書の秘密、私有財産の保護などが認められました。

記事中に

間違いがある。日本の神道とは、頂点に天皇をおくものではない。長州らによる明治維新で、明治天皇入れ替え事件を起こし、まるで天皇が国民より上の立場だと作り出したが、神道とは、全く関係ない。神道とは→日本の民族信仰として伝えられた道。天照大神(あまてらすおおみかみ)を始め国家的・民族的な基礎を持つ神々を祭り、その教えを尊ぶ信仰。かんながらの道。日本の宗教。惟神道ともいう。教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である。 自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 、、、その聖域である神社を、神聖なる神の領域を、 安倍をはじめとする右翼たちは、 身勝手な印象操作により利用した。 日本の多くの神社を、食い物にした。 言うなれば安倍は、神の怒りに触れ、このような自業自得の最期となったのである。安倍の支持団体 →神道政治連盟(しんとうせいじれんめい)は、日本の政治団体。略称名は神政連[1]。神社界を母体として1969年(昭和44年)に結成された神社本庁の関係団体である[3] いま、「神社本庁」の存在感が急激に増している。安倍政権と密接な「日本会議」より先鋭的な思想を持つとされ、その関連団体「神道政治連盟国会議員懇談会」には300人以上の国会議員が加盟している。  日本会議と神社本庁。ともに安倍政権の“黒幕”のように指摘されるが、その思想から成り立ちまで両団体の性質は大きく異なる。季刊「宗教問題」編集長の小川寛大氏がレポートする。  * * *  安倍晋三首相の思想が色濃く反映されていると言われる自民党の憲法改正草案(2012年4月発表)。国防軍の保持や「家族は、互いに助け合わねばならない」といった規定が盛り込まれ、保守陣営からは高く評価されているものの、リベラル側からは激しい批判が巻き起こった。  こうした安倍政権の思想的背景に、政治団体の存在を指摘する声は多い。  たとえば日本最大の保守系市民団体である日本会議、そして全国の神社約7万9000を束ねる組織・神社本庁などである。この両団体の存在を安倍政権の“黒幕”のように語る声さえある。だが、両団体を同一の性格を持つ団体と見るのは正確ではない。  簡潔にいえば、日本会議とは1970~1980年代にかけて結成された、文化人や宗教者らによる反共産主義の政治団体を母体とし、日本国憲法を中心とする戦後日本の体制を「時代に合った形に変える」と言って改憲などの運動を進めている組織である。一方で神社本庁の政治姿勢とはズバリ、反米、戦前回帰である。 双方とも「保守的な主張をする団体」ということでは共通するが、神社本庁の方がある意味で“先鋭的”なのだ。両団体とも「日本会議国会議員懇談会」や「神道政治連盟国会議員懇談会」といった関係団体を持ち、自民党の政治家とパイプがあるとされている。  彼らの思想が色濃く反映されているものに、たとえば神社本庁の広報・機関紙的な役割を担う『神社新報』という新聞がある。この新聞の論説欄などに頻繁に登場するのが、大日本帝国憲法への賛辞にも近い肯定的評価だ。  ここ数年の紙面をざっと点検すると、「(憲法改正は)帝国憲法にまで遡って明治の先人による自主憲法制定過程の苦心とその精神を学び、今日に活かすといふ道程を取るべきだ」(2013年9月16日付)、「(憲法改正運動は)明治の帝国憲法こそが指針となってくる」(2012年5月21日付)といった具合だ。  日本の神道とは、その頂点に祭祀王たる天皇をいただく教義体系を持つところから、当然のようにその政治的姿勢は保守・右派である。日本国憲法を改正せよとの主張も、神社界は戦後一貫して叫び続けてきた。  ただし、同じく憲法改正を党是とする自民党が今、「憲法を現在の国際・社会環境に合致させるため」というスローガンの下でその取り組みを進めるのに対し、神社界は「大日本帝国憲法という理想に帰る」という形で憲法改正の必要性を叫ぶ。

やはり

秦の始皇帝は、イスラエル人の可能性高そうやな。 秦の始皇帝が日本に来て全国に広めたもののうちの一つが神社。それが原始キリスト教。なので、日本の神社は本物のキリスト教、実は。カトリックとかエホバとか、あんなもんは全部偽物で、だから、 日本人が神社に初詣とかに行くのは、当たり前のこと。安倍はその神社を乗っ取った。それは完全に、神に背いたと、いうこと。 イスラエルの失われた12士族!秦の始皇帝→ 16/11/09 秦の始皇帝の陵墓を守護するために周囲に埋められた兵馬俑が、遠く離れた古代ギリシャの影響を受けたとの説が浮上していると、最近、イギリスBBC(電子版)が伝えた。 多くの王国に分かれていた中国を初めて統一し、氏族を基にした封建制に終止符を打った秦の始皇帝は、中国史の中でひときわ大きく輝いている。始皇帝が建設した万里の長城は、その強大な権力の象徴でもあるのです。 兵馬俑とは死者を守るために共に埋められる人形のことであるが、その核心を揺るがす見解が示されたのです。これは、外国の研究者だけが発表したものではなく、中国の研究者によっても同じ趣旨の見解が出されました。 「秦始皇帝陵博物院」の李秀珍研究員はBBCに「シルクロードが開かれる前に始皇帝時代の中国と西洋の間で密接な接触があった証拠が見つかった」と証言した。 ウィーン大学の教授も最近発見された像の特徴から、「ギリシャの彫刻家が中国人に技術指導したかもしれない」と指摘したのです。 中国・西北大学の段清波教授は、長らく始皇帝陵園の発掘の指揮を執ってきた研究者です。段教授の論は、明快かつ驚くべきものでした。 「兵馬俑は外来文化、特にギリシャやペルシャなど西方の彫像文化を受け入れたものでしょう」 「兵馬俑のような、等身大でリアルな造形の俑(副葬品の人形)はそれ以前には中国ではまったく出土しておらず、その後もない。まさに空前絶後の遺跡だ」と語っているのです。 兵馬俑が作られる約100年前の俑の大きさは20センチ足らずでシンプルな造形です。こうした人形が一般的だったにもかかわらず、突然、始皇帝の兵馬俑において「巨大化」し、「写実的」になったのです。 兵馬俑の80年後、前漢時代の皇帝墓でみつかった俑は大きさ50センチと小さく、顔や肉体の造形も簡略化されています。わら人形のような形でリアル感はないのです。こうした俑は前漢の墓以降、見られなくなったのです。 中国の歴史上、突然変異のように現れ、消えた兵馬俑・・・・・。それは一体何を意味するのか。 始皇帝に先立つ紀元前4世紀、世界で最も進んだ彫像文化を育んでいたのは、地中海沿岸、とりわけギリシャ文明でした。その文化は始皇帝の100年前、アレクサンドロス大王の東方遠征によって、アフガニスタンなど中央アジア一帯にまで伝播したことが分かっています。そこからさらに中国の最も西にあった秦まで伝わり、始皇帝はその彫像を目の当たりにして、自分の墓に取り入れたというのです。 段教授は論をさらに進めます。 「兵馬俑だけではありません。例えば、始皇帝陵から出土した青銅製の馬車、銅車馬(銅馬車のこと)。青銅で馬車を作る文化はそれまでの中国にはなく西方由来です。始皇帝が各地を巡行した 際に、石に文字を刻んだ「刻石」を残しましたが、それも中国のオリジナルな文化ではなく、西方から学んだものでしょう。 こうした例は、実に枚挙にいとまがありません。ある歴史書の中には、始皇帝が全国を統一したその年、秦の西側の国境で「大きな人」に出会ったという記載もあるというのです。 世界史の教科書では、シルクロードは、秦のあと、前漢の時代に張騫の西域遠征によって開通したと学んだはずだが、段教授は言います。 「近年の考古学の成果は、それよりもはるか以前から東西交流が盛んだったことを明らかにしています。鉄器、黄金、小麦など様々なものが西方からもたらされ、中国に広まりました。秦は戦国諸国の中で西のはずれにあり、諸国から一段低いものと見なされていましたが、逆に外来文化の伝播という面でいうと真っ先に西方文化が伝わる情報の先進地だったのです」。 さらに段教授曰く、 「私は、始皇帝が全国を統一後に行った数多くの政策、政治体制や法律、文字や度量衡の統一、道路交通網の整備などは、アレクサンドロス大王が征服し、かつ踏襲したペルシャ帝国から学んだものだと考えています」と総括したのでした。 さて、それでは秦の始皇帝はどこの民族だったのでしょうか。 昔、中国にはペルシャ人が何十万人もいた地域があると伝えている。シルクロードを介してペルシャやギリシャの人々や文化が入って来ても不思議ではない。 その流入の地であった秦の国に最先端技術(優れた製鉄技術、牛耕技術)を持った渡来人(西アジアの人々、イスラエル移民と想定)が大量に流入し、新しい文化を持った国を造り上げたとしても不思議ではない。 現に、秦の始皇帝の実の父は荘襄王ではなく“呂不韋(ロフィー)”と言われている。この名前は中国人ではなく外国人の名前を中国語で表記したと思えるのです。 この時代の秦の国で起きた出来事は、20世紀のアメリカ大陸で起こったアメリカ建国に類似しているのではないかと思っています。アメリカ合衆国の歴史はイギリスやオランダなどの西欧人が宗教弾圧を逃れて、大西洋を渡ってきた渡来人(移民)によって建国されたのです。そして取り分け影響力の強いイギリスが歴史の主役となったのでした。 秦の始皇帝も同様の経緯で建国されたのではないかと推測しています。そして、秦の始皇帝に不老不死の仙薬を求められて、日本に探しに来た徐福は数千人の集団とともにその後、日本に永住したのです。そのような往来が昔からあったのです。 そして、秦の滅亡を機に、秦の渡来人は迫害を避けて最終的に朝鮮半島へ移住し、日本へ渡来する直前まで朝鮮半島に寄留、今度は韓流文化の影響を受けることになりますが「魏志」において「辰韓人(秦韓人)」と記載されているのです。 その秦の渡来人は日本に渡ってきて、「秦氏」と名乗ったのです。 秦氏は大陸から渡来してきた技術集団だったのです。ただし、漢民族(中国人)ではありません。 もっと遠くからの渡来人です。泰氏は、いろいろな分野において、他の渡来人とはまったく性格を異にする、いうならば、まことに奇妙な渡来人だったのです。 秦氏の渡来について、『日本書紀』 巻第10「応神紀」に記載があります。 「十四年二月春、百済王が衣縫工女(きぬぬいおみな)を奉った。・・・・・その年、弓月君(これが泰氏)が百済からやってきた。奏上して、『私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています』といった。それで速やかに新羅に行って、弓月の民を救出した」と記しています。 ここで言う「弓月の民」とは西アジア地域につながり、最終的にはイスラエルのダビデ王族の血統を引き継ぐ一族に辿り着く可能性さえあるというのです。 ご参考だが、イラン系白人のサカ族は「月氏」と称されていたのです。 この秦氏(はたし)が大陸から携えてきた文化は極めて高度なものであり、泰氏はその財力と土木技術を活かして灌漑や大規模な土木工事、古墳の造営に着手し、湿地で洪水の多かった山背国(現在の京都)の治水事業や地域の開発と発展に大きく貢献しました。嵐山にある渡月橋の葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれている堰(せき)はこの泰氏が築いたものです。 そして、京都・平安京の造営は泰氏がスポンサーであり、設計、施工も行った歴史的な一大土木工事だったのです。また、八幡神社、伏見稲荷神社や広隆寺をはじめとする多くの神社を全国に建立しました。養蚕や機織り、酒造も手掛け、楽器や紙といったさまざまな文化・芸術に関する教養も日本にもたらし、飛鳥文化における中心的な役割も担ったのです。 今年の8月、読売新聞の奈良版に、「奈良の都にペルシャ人の役人がいた」と報じられていました。 奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかったというのです。 国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果だと書かれていました。木簡は、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とのことでした。 このように、古来より日本にも多くの渡来人がやって来て、新しい文化を開花させて来たのは間違いがないと思っています。

多くの

国民を破産や家族離散に追い込んだ金を韓国に送り私服を肥やし、世界征服をもくろむ統一教会は、オウム真理教と同じく、危険極まりないカルト宗教だ!!統一教会を解散させよ→宗教法人解散命令  宗教法人法(昭和26年法律第126号)は,宗教団体が,礼拝の施設その他の財産を所有し,これを維持運用し,その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため,宗教団体に法律上の能力を与えることを目的(1条)として昭和26年に制定された。その特色としては,宗教法人制度が信教の自由と政教分離の原則に密接にかかわるものであり,国による関与が最小限にとどめられるべきとの考えから,所轄庁の権限が民法の法人の主務官庁に比べて限られていることが挙げられる。宗教法人に対しては,法人税,地方税などでの優遇措置がある。前述したように,教団は,平成元年8月,所轄庁,(東京都知事)の規則の認証を受け,法人登記をした宗教法人であった。  検察官(東京地方検察庁検事正)及び東京都知事は,平成7年6月30日,それぞれ東京地方裁判所に対し,教団に対する宗教法人の解散命令を申し立てた。申立の理由は,教団によるサリンの生成企図という殺人予備行為が,同法81条1項1号(法令に違反して,著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと)及び2号前段(同法2条に規定する宗教団体の,目的を著しく逸脱した行為をしたこと)所定の解散命令事由に該当するとするものである。  東京地方裁判所は,平成7年10月30日,申立人両名の申立を理由があるものと認め,教団を解散する旨の決定を下した。これに対する教団の東京高等裁判所への抗告が棄却された(7年12月19日)ことにより,同決定は確定し,続く最高裁判所への特別抗告も棄却された(8年1月30日)。これまで,休眠状態の宗教法人に対して,同法81条1項2号後段及び4号を理由として解散を命じた事例はあるが,法令違反・目的逸脱行為を理由に解散を命じたのは,本決定が初めてである。解散命令により,清算人が裁判所によって選任され,教団は清算手続に入った。  なお,教団によるとされる犯罪を契機として,宗赦法人法改正の論議が高まる中,文部大臣の諮問機関である宗教法人審議会が調査審議を重ねた結果が文部大臣に報告された。政府は,この報告を尊重して作成した法律案を国会に提出し,「宗教法人法の一部を改正する法律」(平成7年法律第134号)は平成7年12月15日に公布された。  改正の主な点は,2以上の都道府県で宗教活動を行う宗教法人(他の都道府県内に境内建物を備える宗教法人)の所轄庁を文部大臣としたこと(5条2項),信者その他の利害関係人は正当な利益があり,かつ,不当な目的がない場合,宗教法人の備え付け書類,帳簿について閲覧を求めることができるとしたこと(25条3項),宗教法人は収支計算書等作成,備え付け義務のある書類のうち一定のものを定期的に所轄庁に提出しなければならないとしたこと(同条4項),収益事業の停止命令,認証の取消し,解散命令の請求のために所轄庁に報告を求め質問をする権限を付与したこと(78条の2)などである。

悪い自民党。統一教会は違法勧誘などにより逮捕者も出して来ている。刑事事件は一度や二度ではない。 名称変更以前に、だせた解散命令を出さんかったことが違法やろが頭悪いカルマ権力支配自民党は、頭悪いカルマ統一教会と、揃って淘汰されよ!!!→旧統一教会の名称変更を文化庁が認証した経緯について、末松文部科学大臣は、教会側から、形式上の要件を満たしている申請を受理しなければ、法律違反に当たる可能性があるという指摘が出されていたことを明らかにしました。 旧統一教会をめぐって文化庁は、平成9年に教会側から名称変更の相談を受け、その後申請は行われなかったものの、18年後の平成27年に申請を受理し「世界平和統一家庭連合」への名称変更を認証しました。 これについて、末松文部科学大臣は記者会見で「形式上の要件に適合する場合は受理する必要がある。担当者に確認したところ、当時、旧統一教会側から『申請を受理しないのはおかしいのではないか』という違法性の指摘があった。教会側の弁護士が言っているという話だった」と述べました。 また、形式上の要件が整っていたとしても申請を認証せず、文部科学大臣の諮問機関である「宗教法人審議会」で判断すべきだったという指摘が出ていることについて、末松大臣は「申請の内容が要件を備えていることを確認して認証を決定したと認識していて、宗教法人審議会にかける案件ではなかった」と述べました

2022年8月8日月曜日

安倍も

統一教会の雑誌●世界日報の表紙 を かざったことがあった。 コイツラの開き直り!!コイツラじじいみな死ね!!お前ら どんだけ税金くらっといてとぼけとるねん?え?くびじゃクビ!!辞任しろ!!献金制度!!廃止!!じゃー汚い奴らめ!!安倍が憲法変えて、政教分離から政教一体させるつもりやったのやから、こんなもん献金ちゃう!完全な賄賂じゃーだから献金制度なんか、廃止じゃー→旧統一教会と関係が深いとされる「世界日報」の元社長から、献金を受け取っていたと報じられた自民党の石破元幹事長。 4日、FNNの単独取材に答えた。 自民党・石破元幹事長「(2017年に世界日報の元社長から10万円の献金があった?)10万ももらっていないと思うな。収支報告書を見てちょうだい」「(今後も献金を受ける予定は?)全くありません、それは」「(2017年は10万の献金ではない?)10万円ではない。それは収支報告書を見てください」 石破氏は過去に献金を受けたことは認めたが、金額は「10万円ではない」と否定した。 しかし、イット!が当時の収支報告書を確認すると、寄付欄に世界日報の元社長の名前、金額欄には「100,000」と記載されていた。 4日午後、改めて石破氏の事務所に質問したところ、「収支報告書の通り、2017年に10万円の個人からの寄付がございました」と回答があった。 さらに、旧統一教会との今後の関わり方について尋ねると、「公序良俗に反すると認められる行為が公になった団体とは、関係を考慮すべきと思います」と答えた。 世界日報からの献金は、自民党の下村前政調会長も「関連団体だといわれる世界日報の社長から、2016年に献金を6万円受けたという事がありますが」と述べ、過去に受け取っていたと明らかにしている。 献金があった前の年の2015年、下村氏は「統一教会」から現在の団体名に変更された、当時の担当大臣だった。 これまで「文化庁から事前報告はあった」とする一方で、自ら指示することはなかったと関与を否定している。 しかし、4日、名称が変更されたことによって、その実態を知らずに付き合いをしていたという議員もいると記者が改めて問いかけると、下村氏は、変更当時の担当大臣として「今となったら責任を感じる」と述べた。 さらに、旧統一教会との今後の関わり方についても「今後は関係団体を含め、一切の関係は絶つということは明言したい」と言及した。 3日、「距離をおくことが必要」と述べていた下村氏だが、4日は「関係団体を含め一切の関係を絶つ」と踏み込みこんだ。 旧統一教会の問題をめぐり、野党3党は4日、それぞれ会合を開いた。 共産党の小池書記局長は、「自民党はもう完全に居直りという態度をとってきています。解明することが政治の責任だ」と述べた。 5日、臨時国会は閉幕するが、野党側は、閉会中審査で旧統一教会と自民党との関係について追及する方針。