2025年11月18日火曜日

沖縄の成り立ち

1609年に薩摩藩が沖縄北部の運天港に上陸し、今帰仁城を落城させると、一気に琉球に侵攻し首里城を占拠。江戸幕府の徳川家康から琉球の支配権を与えられた島津の統治下に入ることとなった。事実上、幕府に組み込まれた琉球は、江戸へ使節を送ることが慣例となり、これを「江戸上り」といい、琉球装束を身にまとうことで、独立国としての対面を保っていたともいわれる。 交易 江戸幕府に組み込まれながらも、依然として中国への進貢は続いていた。中国は明から清へと王朝が変わったが、清とも冊封・朝貢関係を維持することで、琉球王国としての独自性を保っていた。また、交易相手は中国、東南アジアにとどまらず、鎖国政策をしいていた日本への足掛かりとして、欧米各国が琉球へ開港要求をしてくるようになった。1853年には、日本との交渉前に、アメリカの東インド艦隊司令長官・ペリーが琉球に来航した。 近代沖縄 日本では明治維新により新政府が誕生。これによって廃藩置県が行われ、琉球王国は琉球藩として位置づけられたが、明治12年(1879)には、ついに琉球王国が崩壊した。沖縄県の誕生である。 琉球処分 明治5年(1872)に琉球王国から琉球藩となったが、王府は、琉球の管轄が薩摩藩から明治政府に変わっただけで体制に影響がないと見ていたが、明治政府は中国(清)との冊封、進貢関係を絶たせ、強硬に藩政から県政へと推し進めようとしていた。王府は琉球存続の嘆願を繰り返したが、琉球処分官により、政府命令を通達。明治12年(1879)に廃藩置県を断行。首里城は明け渡され、藩王であった尚泰は華族として東京に居を移すことになった。ここに450年続いた第二尚氏王朝は終焉を迎えた 沖縄県誕生 近代日本に組み込まれた沖縄県だが、古い制度を残し急激な改革を行わない「旧慣温存策」が取られていた。しかし、旧支配層のみがその恩恵を受けるばかりで、一般県民は貧困に苦しむという状況が続き、1886年から87年に伊藤博文総理大臣をはじめとする政府要人が来島し、沖縄県統治の方針が修正されることになった。当時の沖縄民衆運動のひとつ、宮古島の「人頭税廃止運動」の名残である「人頭税の石」は今も宮古島に残る。 第二次世界大戦 日本政府が、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦へと突き進む中、沖縄も戦争に巻き込まれていく。第一次世界大戦終結後に起きた戦後恐慌では、沖縄では「ソテツ地獄」と称され、命を落とす危険さえあるソテツの実や幹を食べて飢えをしのぐほどの悲惨な状況だった。第二次世界大戦から昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入すると、沖縄の各島々には飛行場の建設が進められ、実戦部隊が配備されるなど、沖縄がアジアへの前線基地としての色合いが濃くなっていった。沖縄戦の様子(写真提供/OCVB) 沖縄戦・終戦 戦局が深刻になり、昭和19年(1944)の10月には、ついに沖縄上空にアメリカ軍の戦闘機が現れ、空襲により那覇市は炎上、壊滅状態に陥った。昭和20年(1945)になると、アメリカ軍の襲来は激しさを増し、3月には慶良間に上陸。住民を巻き込んでの地上戦となり多くの犠牲者を出した。続いてアメリカ軍は4月に沖縄本島への上陸を果たし、沖縄本島を中部で分断し、北部から攻め落とし、最後行き場を失った日本軍と住民は南部へと追い詰められていった。日本軍の牛島満司令官の自決により、最後の砦「摩文仁」をアメリカ軍が占領して沖縄の地上戦が終結した。むごい最期を遂げた住民は数え切れず、ひめゆりの塔をはじめ、南部には今も戦争の傷跡が残り、慰霊の火が消えることはない。読谷村渡具知にある集落跡「木綿原遺跡」 現代沖縄 昭和20年(1945)8月15日に太平洋戦争は終わりを告げたが、沖縄は同時にアメリカ軍統治へと変わる。今へと続く基地問題はこの時から始まった。沖縄が日本に復帰するのは、戦後27年経ってからのことだった。

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