2016年2月5日金曜日

ご支援のお礼/神戸市職員/「スポーツマン精神」って?

☆ご支援のお礼

2月1日 大阪府Tさまより 3万円
2月3日 兵庫県Yさまより 3千円

を、振込にてご寄附いただきました

Tさま、Yさま、いつもありがとうございます


☆前回の記事で書いた場所「神戸市産業複合団地」内に神戸市が設置した捕獲器にかかった『誠くん』の里親さんから写メをいただきました

お返事をお送りしましたが、届いていなかったらすみません

明るいご家族の元で、ご家族にぴったりのマコの写メがなんとも言えずほほえましく
ひさしぶりに、笑顔になりました

里親になってくださった京都市のHさま、本当に、ありがとうございます


☆黒猫「チコ」の名前の由来について

前に一度ブログに書いたことがありました

昔飼っていた「チコ」というメスの猫を、父親が棄てた ということを


須磨区役所付近で保護した黒猫は、家のなかをだーーっと、すごい速さで運動神経バツグンな感じで走り回ります

疲れたり、甘えたいときは、わたしに甘えてきたり寄り添ったり・・・


その感じが、父親が棄てた「チコ」に似ていたから、この子も「チコ」と名付けました


その、父親が棄てた猫は、父親が近所でもらってきました

わたしが中学くらいの時・・


もっと昔の話

大人になってから母親に聞いた話


わたしが自分で覚えていないくらい小さい時に、子猫をひらってきたそう・・

家に帰って母親は

「もとに戻しておいで」と

わたしは、泣きながら子猫を元の場所に戻しに行ったという・・


だけど、そのあとに父親は犬を飼いました

何頭か、、犬が亡くなると次の犬を飼う感じで・・


すぐ裏の家の敷地で、のら犬が子供を産んだことがあって、、

そこは男手がなかったから、父親に「どうにかして」と頼みにきて

父親が捕まえて、、

家の玄関土間に、父親は子犬たち5~6頭くらいをどっかに連れて行く準備してた


わたしが小学校中学年くらいの時だったと思う

あの時父親が、子犬たちを飼ってくれる人をさがすことをしないだろうことは
なんとなくわかっていた

いやたぶんわたしの中に、そういう発想(飼ってくれる人を探す)もなかったと思う



前に書きましたが、

わたしは、兄弟のなかで、両親の愛情を受けていません

子供のころから両親との会話というものが、ほとんどありませんでした


だけどあの時、なんで、

「子犬を飼ってくれる人をさがすことをしよう」と、
考え付く人間、父親に言える人間でわたしがなかったのか?


わたしはたぶん、子供のころから

「主張する」ということをしなくなってしまっていたのだと思うが、それだけではないと思う


子猫の時にあきらめたことが、子犬の時には、最初から
助けようとしなくなってしまっていたのだと思う


父親が死んでから母親に聞いた

「あの時の子犬は、藍那へ行く道で段ボールに入れてお父さんが棄てたんや

だれかがひらってくれるかも?って」


その後も、小学校の帰り、木津駅から家に帰る途中に、向こうから歩いてくるのら犬に出会ったことがあった

ランドセルに入れていた給食のパンののこりをあげました

犬は喜んで、わたしも、殺処分のことなど知らなかったので、犬が食べてくれたことを喜んで
犬とは逆方向に、何とも思わずに帰りました

このあたり、、なんともおもわなかった

というのもやはり


親が動物にしたことの影響・・というか、、大きくなってくるにつれて、自分も、動物の心の痛みを
感じなくなっていっていたのではないか?と、今は考えます

犬は代々飼っていたけれど、だいたい父親が世話していた感じでした

そしてわたしが中学の時に、父親が黒猫の子猫を近所でもらってきた


そのころは、猫を外で飼っているのがいなかでは当たり前でした


チコはやんちゃで、時々かえるをくわえてきたりしていました

わたしに一番なつき、夜はわたしのベッドに入ってきておなかの上で一緒に寝ていた


高校のある日、夜になってもチコが帰って来なかった

親から、

「チコはどこかに行ってしまったのではないか?」と聞いていた


そのまま大人になって、子供ができてから、犬と猫にまつわることもいくつかありました

そこはまた書きたいと思います


平成7年夏に、父が死にました

64歳  

神戸市消防局に60歳まで勤務

須磨海岸の石油コンビナート付近の「防災センター」に二次就職をして
震災のあった年の夏に64で死にました


父は娘をかわいがってくれたので、だんだんと父と話すことも増えてはいましたが
父が死んで数年後に、母から

「あの黒猫なあ ほんまはお父さんが棄てたんや」

わたし
「うそやん?なんで??」

母親
「近所の家に入って魚とか食べたり、悪いことしにくる言われてな、、」

わたし
「どこに捨てたん??」

母親
「有馬の旅館街や・・ 有馬の消防に出勤する時にな
あのへんやったら、食べるもんに困らんやろ 言うて・・」

母親はわるびれもしない感じでわたしに言った

わたしは、そのころ殺処分の実態などをしり活動を始めていた

父がチコを棄てたと知ったあと、

父に線香1本も立てていないし、仏壇に手も合わせていない


だけどそういうわたしも、、
活動を始めるまでのあいだに
仕事に必死になっていたころ

偶然見つけた、助けられた犬や猫を助けなかったことが数回ある

だから、、
わたしには、気づきのチャンスが何度か訪れていたのだろうけれど

それでも気づかずにいたから

『交通事故』という、おそらく最後の気づきのチャンスを

与えられたのではないか?

って、思う

あの事故がきっかけで、

わたしの精神は大きく変わった


もしあの事故でも気づくことができなかったなら

わたしはたぶん、生きていても心ない人間、中身のない人間に
おそらくなっていたと思う


その、「助けられたのに助けなかった犬と猫」に対する後悔が、、、

それと、親に精神的に見捨てられたように育った自分と、

人間に捨てられた犬や猫の気持ちが

今でも重なることは変わらないから

わたしはこうなんじゃないかな、、って、思う


その、猫を棄てた父親について、、ですが

外ではとても人に受けのいい人でした

勤務時間以外でも、交通事故などに遭遇した場合のために、

自家用車に救急の道具を積んでいた

昭和6年生まれ・・なので、14歳の時に終戦を迎えています


前にブログで書いたことがあるのは、、

神戸市の市長選挙で、
『消防のもん(者)は、笹山市長候補に投票しろ』と上から指示があった

ということ

『決算(3月)が近づいた時に、来年度の予算確保のために
消防署の風呂(消防は泊り勤務なので)の湯を出しっぱなしにして、水道代を高価に計上した』
ことなど、、、

田舎の家なので、台所で父親が酒を飲んで2時間くらい母といろいろしゃべっているのが、
そこを通るたびに聞こえていた

トイレは外のぼっとんだったため、トイレに行くたびに、、

お風呂が台所の隣だったため、その時間とかに、、自然に耳に入る

わたしはそれをなんとなく聞いて育ちました
兄や姉も聞いていたのか?
聞いていたとしても、たぶん兄姉は、そういう両親に愛情を受けて育ったので
愛情を自分たちに与えた両親のことが好きだったのだと思います

わたしはその時には自分の気持ちを自分で分析することができなかったのだけど、
愛情をもらわなかった両親に対して、、

両親の言動にそのころから違和感を感じていた、、
それが成長するにつれて、しかも社会のゆがみを感じ始めて
だんだんと自分でもはっきりとわかっていったのだと思います

両親の言動の「ゆがみ」が、、

父親は酒が好きで、非番(勤務を終えて消防から昼前に帰ってくる日)の日は、昼ごはんのあと必ずコップ酒を飲んだり、夜もよく飲んでべろんべろんになっていました

その父が、わたしが小学校2年ごろから、藍那小学校に少年野球チームをつくって非番の日は、毎回(2日に一回は必ず)小学校に野球チームの監督に行くようになり、昼のコップ酒はしなくなりました

2つ上の兄が4年生くらいの時だったと思います

小さな小学校だけど、北区で優勝するまでになり、卒業後は「鈴蘭台中学校」へ

その頃北区の少年野球はとても強く、兄が1年の時に『鈴中(鈴蘭台中学校)』は、神戸市大会・兵庫県大会で共に優勝もしました

兄が3年になる時に、野球部の顧問であった体育教師が、同じ神戸市立の、ある高校へ異動しました

その高校は昔野球が強かった時期があり、その時代また強くなっていました

公立高校なので、学習面でクリアできる子が、鈴中からも進学し、兄の進学時にも、野球部顧問である鈴中の体育教師だったその人が顧問をしているその高校へ

兄はキャッチャーで、とてもうまく高校1年からレギュラーでした

その高校は神戸市西区に別グランドを持ち、厳しい練習に救急車がくることも、、、、

その別グランドは、今年4月にもう一校と合併して新校舎ができると神戸市のHPに書いていますが、、
強い野球部はなぜか?父兄たちが合宿の手伝いなんかにも行ったり、、普段からしょっちゅう野球部顧問との親交が深く、両親も例外ではありませんでした

兄が1年の秋だったと思いますが、、
兵庫県大会で優勝して近畿大会へ

1回戦で負けてしまい春の甲子園には兵庫県で2位だった学校が出場

甲子園に漏れた高校が出場する『明治神宮大会』で、準優勝していました

プロのスカウトなども見に来る大会です


甲子園に行けなかった悔しさを『次こそは・・』と

そして次の大会だったと思いますが、

兵庫県大会を順調に勝ち進んでいた時、準々決勝か準決勝の試合の時のこと

試合中に校長がやってきて

「この試合わざと負けろ」と

理由は・・

野球部を引退していた3年生が、新開地駅のトイレで国籍の違う男子に対し暴力をふるった

その子の親が

「●●高がこのまま勝ち進んだら、このことを新聞社に言う」と言ってきた

だからこの試合、わざと負けろ、、と


で、わざと負けた

この時、この校長は、兵庫県高校野球連盟の会長

その立場もあったと思います


この校長の妹が、藍那幼稚園でわたしと兄を受け持っていた人であったこともあり、

両親は校長ともある程度親しくしていました


そのあとで母親が言っていたこと

「●●ちゃん(殴られた子の母親)やったら子供の時の幼馴染(藍那の人)やから、わたしにひとこと
(事件のこと)言ってくれたらわたしから●●ちゃんに話したのに・・」

これを聞いた時のわたしは中3でした

その時の自分の感情をはっきりは覚えていないけど
違和感は感じたと思います

母親がもみけそうとしたかったという意図があったんだという違和感を


この時のピッチャーは、兄と同じ鈴中の同級生でした

兄は高3になり進路を決めることになりました


そのピッチャーの子と兄とのバッテリーと、、それから
ファーストの子(この子も鈴中出身)の3人で

監督とも話し合って京都のR大を受験することに

R大から、3人で来てほしいと言ってもらい、だけど、スポーツ推薦でも最低何十点は試験で取ってくれ
と言われ、、兄も勉強をしていました

その試験の日に、、
ピッチャーの子だけが来ませんでした

で、その夜に野球部の監督が家に来ました

玄関土間で監督が土下座をして父に謝っている光景が、ガラス扉1枚隔てた居間にいたわたしにもわかりました

父親は、声を荒げたりはしていませんでした


監督は、知っていた
だから謝りに来た

ピッチャーの子が、ある球団にドラフト外で入りました

(7年その球団にいて1軍には上がれずに引退しましたが、、)

R大は怒り、「今後●●高の野球部からはとらない」と


兄は急きょ校長が見つけてくれた企業に就職してサラリーマンをしながら社会人野球を・・

数年後に、神戸市水道局(社会人野球が強かった)から声がかかりましたが、大学に落ちたところを拾ってくれた会社に恩義を感じて水道局には行きませんでした


わたしは思うんですよ、、

なぜ父が神戸市の教職員(体育教師)であるその監督に怒らなかったか?


たぶん、、父も、怒れない(怒ることをしない)人間だったからだろうと


市長選挙のこともだし、、

そんなことがあったにも関わらず、そのピッチャーの子が行った球団のファンをまだしていた人で、、

しかも、、これも前に書きましたが

最期、社会保険中央病院に入院していて週1回の担当医の回診の時に、その病院では禁止されていたにも関わらず、毎回1万円を渡していた、、若い担当医もそれを受け取っていた

命が助かりたいから?

助かりたいなら、なんでたばこやめんかったん?
肺がんになっても吸ってた

死にたいのか、助かりたいのか?

最期の方、痛み止めのモルヒネも効かなくなって、苦しくて苦しくて、ベッドの頭の上にあった
ぶくぶくする、、なんていうのかな?鼻にチューブ入れて呼吸を楽にするための、、
泡がぶくぶくする、あのガラスの入れ物を手で割っていた

そうとう苦しかったみたい、、

そのころは父親がチコを棄てたことをわたしは知らない

C型肝炎→肝硬変→肺がん

で死にました


父は新薬を試していました

父が死んだ直後に病室に入ってきた若い担当医は涙を流し

母親に

「新薬の効果をみたいから死体を検体して欲しい」と

母親はOKした

「お父さんが死んだ時涙流してくれて、あの先生はいい先生や」と


今のわたしからすると

「は?医者が涙?
回診で規則を破って毎週患者から1万円受け取る医者がいい先生??」

って思います

結局父もおんなじなんですよね、、

あの体育教師(野球部監督)と

だからあの時監督に怒るという感情が起こらなかったんだな・・って

あの時、父や兄がもっと行動を起こしていたら、、

あの有名なコンビの似たそれは、なかったかもしれないな、、って

父や兄だけではないと思う

たくさんたくさんの同じような人が声を上げなかったんだと思う


で今結局野球がどうなったか?

野球離れは進み、そういうことやとばくや覚せい剤など、、

『スポーツマン精神』とは、ほど遠い人たち


その体育教師は神戸市教員として定年を迎えていますが、現在
全日本高校野球連盟の理事をしています


「スポーツ」って、第一に、精神面を鍛えるものだと思う

鍛えるっていうのは、単に強くなるということではない

相手を思いやったり、かけひき(プレー中の)を覚えたり、チームの和を保つことで社会性や協調性を養ったり、、、

そこの部分が間違っているから、野球がこんな風になったんだと思う

結局は、やっぱり

「やったことは返ってくる」


まだB型肝炎もC型肝炎も名前が無かったころ

神戸市民からの通報で

「神戸市の消防は、交通事故の現場で道に散らかった内臓なんかを
まるで汚いものをさわるかのようにゴム手袋をはめてしている」

この通報を受けて、

「素手でやれ」との命令が出てそうした時期があった

と、父親が死んだあとで母が言っていました


そういう命令もふつうはおかしいと思うし、そういう時にきちんとした言葉で

「それは違う」と言えない

というのも、

わたしはおかしい

って思います


だから、父親がチコを棄てたことからも、、


大切なことはなになのか?

を、全く

わかっていなかった公務員(神戸市職員)であったのだな、、って

思います


そして、ある程度より上の年齢の人って、

こういう人が多いんだろうな、、、って・・・


時代は必ず変化します

どう変化させていくかは、その時代時代を生きていく人たちの

生き方そのものにより・・


全ての生命を尊ぶ会
武田弥生











































































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