2026年1月19日月曜日

今日台湾があるのは、日本人「根本博」のおかげ

根本博の動画を以前あげましたが、この、非常に頭が良く、情と義理に熱い、これこそが、日本人、本物の大和魂なのです。 蒋介石が日本に対して戦後賠償金を求めなかったのは、 日本人「根本博」のおかげ!と言っても過言ではないでしょう。 それと相反して、敗戦後に攻めて来たロシアの腐りきった根性、、、本気で、ロシアシネ!! 根本を上官に持った兵士たちは、 なんと幸せだったでしょうか。→太平洋戦争の真実 その8 ―義の将軍 根本博陸軍中将 ― 終戦後、支那大陸から日本軍人や邦人の早期復員のため尽力してくれた蒋介石に恩を感じ、戦後台湾に追い詰められた蒋介石率いる国民党軍へ身を投じ、支那共産党から台湾を守るため尽力した元日本陸軍中将がいました。 根本博陸軍中将ある台湾の「金門戦争」研究者が現地を調査していたら、「自分たちがあの戦争で死ななかったのは、ある日本人のお蔭だ」という話を聞きました。 なんでも、日本人の将軍が国民党の軍にいて、大陸から攻めてきた共産軍を撃滅したというのです。 その日本人の将軍こそ根本博・元陸軍中将です。 忽然と日本から台湾に密航して、国府軍を補佐、指揮して金門島で共産軍を迎え撃ち撃滅したのです。 まさに彼のお蔭で台湾の共産化が阻止されたと言っても過言ではありません。 昭和20年8月15日の敗戦の日を根本は北京で迎えました。 モンゴルの大部分を警備する駐蒙軍の司令官だった根本は、天皇陛下の玉音放送の後、マイクに向かって、「地元民、邦人、及び我が部下等の生命は、私が身命を賭して守り抜く覚悟です」と語りかけました。 そして、根本は全軍に命じました。 「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う」 本国からは武装解除命令が出ていましたが、ソ連軍の本質を見抜いていた根本中将はそれに従いませんでした。 駐蒙軍の目的はただ一つ。侵入してくるソ連軍と戦い、時間を稼いでいる間に4万人の居留民が安全に引き上げる時間をつくることでした。 8月15日、16日のソ連軍の攻撃は特に激しかったが、根本率いる駐蒙軍の頑強な抵抗によって、ソ連軍を退却させたのです。 8月21日に居留民の撤退が完了しましたが、根本は北京に留まり、北支那方面の最高責任者として在留邦人および35万将兵の祖国帰還の指揮をとりました。 根本には蒋介石に対して、言葉では尽くせない恩義の気持ちがありました。 一つには、在留邦人、将兵の帰国に蒋介石の国府軍が庇護と協力をしてくれたこと。 それは満州を略奪し、数十万の日本人捕虜をシベリアに連れ去ったソ連とはまさに対照的です。 もう一つは、昭和18年11月に行われた「カイロ会談」で、アメリカ、ルーズベルト、イギリス、チャーチルに対して、日本の戦後の国体に関して、蒋介石は日本国民が自由な意思で政府の形を選べるべきだと主張をし、賛同を得たことから天皇制存続に繋がったとの感謝の思いです。 昭和20年12月18日、根本は蒋介石の求めに応じて面会しました。 蒋介石は、にっこりと微笑みながら根本に言いました。 「今でも私は東亜の平和は日本と手を握っていく以外にないと思うんだよ。今まで日本は少々思い上がっていたのではないだろうか。しかし、今度はこれで私たちと日本は対等に手を組めるだろう。あなたは至急帰国して、日本再建のために努力して欲しい」 根本は約束しました。 「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立てることがあればいつでも馳せ参じます」と・・・ 在留邦人と将兵の帰国は約1年で無事完了し、根本は、昭和21年7月に最後の船で帰国しました。 根本が東京南多摩郡の自宅に戻ったのが、その年の8月で敗戦からちょうど1年経っていました。 それから3年、国共内戦は共産党の圧倒的な勝利に終わろうとしていました。 根本は、蒋介石への恩義を返すために「自分が行かねば」と思いました。 ある日、釣り竿を手に、普段着姿のまま家族に「釣りに行ってくる」と言い残し家を出ました。 そしてそのまま、台湾に密航するための工作活動にはいり、昭和24年6月26日、根本は延岡港から通訳の吉村是二とともに小さな釣り船に乗り、台湾に向け出港したのです。 アメリカ軍の占領下、海上は当然厳しく監視されています。 見付かれば逮捕拘束、全ては水泡に帰します。 そんな中彼らは警戒網を掻い潜り2週間もかけてようやく台湾にたどり着きます。 まさに奇跡的な所業でした。 根本が来たと知らされた蒋介石は、即座に会見を求めました。 満面の笑みを浮かべた蒋介石が「好(ハオ)好、好」と言って根本の手を固く握りました。 根本の胸中には万感の思いがこみあげてきました。 3年前の別れの時に「私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束した、その約束をついに果たせたからです。 しかし、その2ヶ月前、国府軍は上海を失っていました。 国共内戦の行方はもう誰の目にも明らかでした。 5日ほど前にはアメリカ国務省も「中国は、もはや共産主義者の手の中にある。国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」として、軍事援助の打ち切りを発表しました。 大陸での最後の足場が福建でした。 ここも失えば、一気に台湾まで存亡の危機に直面する。 根本らは国府軍の軍服を与えられ、また蒋介石から贈られた中国名を名乗ることとし、根本は「林保源」と名乗りました。 根本は自分の考えを示しました。 「共産軍を迎え撃つのは、金門島をおいてほかにありません。いまは台湾を守ることが、国民党政府を守ることです。そのためには戦略的に金門島を死守することが力になります。自分の名誉ではなく、台湾を守る筋道をつけることが、軍人の務めではありませんか?」 この言葉に湯将軍は決断します。「厦門は放棄。金門島を死守する」 こうして金門島を死守するという基本方針が根本の具申通りに決行されたのです。 根本は、日本陸軍が得意とする塹壕戦法をとることとしました。 海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させてから戦うという、硫黄島や沖縄戦などでも圧倒的な戦力の米軍に対して大きな損害を与えた戦法です。 根本は、共産軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築、敵船を焼き払うための油の保管など、日夜島内を巡りながら指示して回りました。 10月1日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が全世界に向けて発信されました。 勢いに乗った共産軍は国府軍を舐めきっていました。 10月24日夜、共産軍の金門島上陸が始まりました。 夜が明けてから国府軍の戦車21両が上陸した共産軍に襲い掛かりました。 37ミリ砲を撃ちまくる国府軍戦車隊に共産軍は多くの犠牲を出しながら敗退し、26日には、根本の作戦に基づく猛攻に共産軍の生存者は武器を捨てて降伏しました。 正確な数字は定かではありませんが、古寧頭戦史館の調査によれば、上陸した共産軍は2万、うち死者1万4千、捕虜6千と推定されます。 国府軍の方は、死傷者3千余名にすぎませんでした。 かくして、わずか2昼夜で「金門島の勝利」が確定したのです。 共産軍は主力を殲滅されたため、その進撃は完全に止まりました。 金門島は爾来今日までも台湾領であり、中国の海峡制圧と台湾侵攻を防いでいます。 蒋介石は、根本の手を握って「ありがとう」と言いました。 受けた恩を返す、それだけのために台湾に密航した根本にとっては、その言葉で十分でした。 根本は、「支那撤退の際、蒋介石総統には大変な恩を受けた。自分はそのご恩をお返ししただけです」と静かに語りました。

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