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2026年7月28日火曜日
ベトナム人を大虐殺した韓国人
ベトナム戦争で韓国人はかなりの虐殺をしています。
生きたまま火の中にほうりこんだりもしました。
ベトナムの一般人を!ですよ。
アメリカは、生物兵器、枯葉剤を蒔きました。
ベトちゃんとドクちゃんを、覚えていますか?
まず→
ベトナム戦争で米軍が空から密林などに散布した枯れ葉剤の影響から結合双生児として生まれたグエン・ドクさん(43)の半生と家族の絆を描いたドキュメンタリー映画「ドクちゃん ―フジとサクラにつなぐ愛―」が3日から、東京都内などで上映される。公開に先立ち来日したドクさんは「私の映画を通じて平和の大切さを考えてほしい」と話した。(野呂法夫)
日本赤十字看護大学であいさつするグエン・ドクさん(右)と川畑耕平監督=東京都渋谷区で
◆後遺症と闘いながら働き暮らす
映画「ドクちゃん -フジとサクラにつなぐ愛―」の一場面(©2024 Kingyo Films Pte. Ltd.)
弟のドクさんと兄のベトさんは1981年、下半身が結合した状態で生まれ「ベトちゃん、ドクちゃん」と知られた。当時、枯れ葉剤に使われた猛毒のダイオキシン類を魚などから親が摂取した影響とみられる子どもの被害が相次いだ。
88年、2人の分離手術はホーチミン市のツーズー病院で成功したが、2007年にベトさんは死亡。ドクさんは同病院の事務に就き、トゥエンさんと結婚した。09年、双子が生まれ、ベトナム語で息子に富士、娘には桜と名付けた。自宅で義母を介護し、自身も後遺症と闘いながら、一家の稼ぎ手として働いて暮らしている。
ベトナムは54年(昭和29年)、対仏独立戦争に勝利し、19世紀からの植民地支配から脱したものの、冷戦の最前線になってしまいました。ソ連や中国が支援する「ベトナム民主共和国」(北ベトナム)と、米国が支援する「ベトナム共和国」(南ベトナム)に分断され、米軍が65年(昭和40年)に北爆を開始したことで、「ベトナム戦争」が本格化しました。
米軍は北ベトナムの部隊が隠れることができるジャングルを除去し、食料となる農作物を奪うため、空から枯葉剤を散布しました。ベトちゃんとドクちゃんが生まれた農村もそのターゲットになった。ベトナム戦争は75年(昭和50年)のサイゴン陥落で終結しますが、枯葉剤が散布された地域ではその後、ベトちゃん、ドクちゃんのような先天性の欠損や奇形を抱えた子供が相次いで生まれました。
1986年4月、ホーチミン市のツーズー病院で日本から贈られた特製車いすで遊ぶベトちゃん(右)とドクちゃん(左)写真=共同通信
「2人を助けて」という世論に動かされる
「兄のベトちゃんが脳炎による危篤状態でベトナム赤十字社が救援を求めている」。86年(昭和61年)5月、日赤はこの報道で命の危機に瀕しているベトちゃんとドクちゃんの存在を知りました。
当初、2人の救援に対しては慎重論が強かった。枯葉剤と結合双生児の発生との因果関係は公式に証明されていません。もし、この救援活動が反米運動のような政治的キャンペーンに利用されたら、赤十字としての中立性も危うくなるという理由でした。私も同じ考えでした。
しかし、当時5歳のベトちゃんとドクちゃんのいたいけな姿がメディアを通じて伝えられると、2人の救援を求める声が全国に広がりました。世論の高まりを受け、日赤も動かざるを得ない状況に追い込まれました。私は連絡員として医師3人と一緒にベトナムに出張することになりました。「くれぐれも2人を連れて帰ることのないように」。出発前、上司からはそう厳命されました。
以上。
アメリカ軍基地がある沖縄から米軍がベトナムに向かいました。
アメリカというくには、本当に頭がおかしいのは、今も同じです。
こ
んな事件もありました。
朴正熙(パク・チョンヒ)(1917~79)
韓国の軍人、大統領。満州軍官学校、日本の陸軍士官学校に学び、関東軍に配属された。第2次大戦後は、韓国陸軍で少将となった。61年5月16日、クーデターを主導して国家権力を握った。国家再建最高会議議長、大統領権限代行をへて63年の大統領選挙に当選した。在任中は、急速な経済成長を実現したが、財閥との癒着、腐敗を生んだ。3選を禁じた憲法を改正するなどして独裁体制を強め、政敵や民主化運動を弾圧した。79年10月26日、宴会の席で側近の金載圭(キム・ジェギュ)・中央情報部(KCIA)部長によって射殺された。
以上、そしてベトナム戦争で韓国が犯した大罪ですが、、、
文中
「
98年、金大中大統領はハノイを訪れ、ベトナム戦争についてこう述べた。
「過去の一時期、不幸な時期があったことを遺憾に思う」
この言葉に対し、ベトナムのファン・バン・カイ首相は「過去に区切りをつけ、未来を見つめよう」と述べただけだった。共産党独裁のもと、ドイモイと呼ばれる改革開放で経済発展を進めるベトナムにとって、韓国は重要なパートナーだ。そうした配慮もうかがわれる。]
の記事がありますが、、、韓国の新聞にて
韓国軍によるベトナム国民大虐殺があらわになったのに、
日本に対していつまでも「謝罪せよ!賠償せよ」を繰り返します。
もちろんそれは、日本の朝鮮人政治家と結託しているのですよ。韓国は、
日本から大金を
もぎとることが出来、韓国に賠償金を与えるために「
日本が悪かったです」
と謝罪をした日本の朝鮮人
政治機には、賠償金の5バーセントが入る。
政治家個人も祖国韓国も、日本人の税金を大量に奪うことが
でき、どんどんと、日本という國を枯渇させて日本人を
生活苦に、追いこみ、日本を韓国にしてしまう作戦なのですから。
そしてベトナム戦争で韓国軍がいかにベトナム人を
たたきのめしたか、、今も自慢をするのですから。
そのようなことが平気でできてしまうのが、
道義もへったくれもない、精神分裂病のエペンギ朝鮮人だから、なのです。
人間ではないからです、朝鮮人は。→
韓国は南ベトナムを支援するため、派兵した。64年から73年までベトナム中部を中心にのべ約32万人。医療部隊から始まり、猛虎、白馬、青竜と、勇ましい名前の精鋭部隊が次々と送られ、その規模は主役のアメリカに次ぐ。兵士以外にも、軍関係の仕事で出稼ぎに行き、故郷に立派な家を建てた人も少なくないという。
ソウルの戦争記念館は、制服姿の軍人らでにぎわっていた。そこでは、ベトナムへの派兵について「共産侵略者と戦う自由ベトナムへの支援は、集団安保のための国土防衛策の一環だった」と説明されている。洞窟(どうくつ)に潜んでいる「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線)をいかに掃討したかを、図入りで誇らしげに示している。
「ベトコンは米兵とは戦ったが、韓国兵を見たら恐ろしくて逃げたんだ」。高校生を引率した教師の声が聞こえた。
■名分は米国に恩返し、実は特需狙い
それにしても、遠く離れ、自国の安全保障とは一見、無縁に見える戦争に、32万人もの兵をどうして出したのだろう。
ベトナム参戦が韓国経済にもたらした影響を研究している静岡大の朴根好(パク・クノ)教授(45)はアメリカの外交文書を詳しく調べ、「韓国の派兵は大義名分と実利が結びついたものだ」と結論づける。「大義名分」とは、朝鮮戦争で米国が韓国側とともに戦ってくれたことの恩返しだったという。
では、「実利」とは?
当時のブラウン駐韓米大使は、ハンフリー副大統領に、韓国の派兵が「一石三鳥プラスアルファ」の効果をもたらすと報告していた。三鳥とは、韓国の経済発展、韓米関係強化、韓国軍の戦闘能力向上だった。
61年5月のクーデターで権力を握った朴正熙(パク・チョンヒ)・国家再建最高会議議長(後の大統領)は11月にアメリカを訪問し、ケネディ大統領=写真=にベトナムへの派兵を持ち出した。アメリカの歓心を買い、軍事政権の正統性を認めてもらうことが重要だったからだ。実際の派兵は、ジョンソン大統領に代わってからだ。64年9月、まず医療部隊とテコンドーの教官を送った。
「朴大統領ら政府首脳は、日本が朝鮮戦争の特需で戦後復興を成し遂げたことをよく知っていた。韓国もベトナム戦争に積極的に加わり、特需により経済発展を遂げようとしたのです」と、朴教授は説明する。
当時の韓国は、米国の援助も減り、外貨不足が深刻だった。じり貧を脱出する手だてが、ベトナム参戦による米国からの特需や援助と、65年に実現した日本との国交正常化に伴う経済協力資金の導入だった。
朴教授によると、韓国は65年から72年まで米国からのベトナム特需で潤い、その総額は10億2200万ドルにのぼる。うち72%が、労働者や軍人の送金、道路建設、浚渫(しゅんせつ)工事、輸送など貿易外だった。「韓国は売る物がなく、労働力を提供するしかなかった」と朴教授は言う。現代(ヒョンデ)、韓進(ハンジン)、大宇(デウ)、三星(サムスン)……。後の大財閥は、ベトナム特需で発展の基礎を築いた。「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」を合言葉に兵士も労働者も企業も戦場に向かった。
ベトナム戦争は、75年の「サイゴン陥落」で終わる。朴大統領はその4年後に暗殺されたが、以後も全斗煥(チョンドゥファン)、盧泰愚(ノテウ)と軍人出身の大統領が登場する。しかも2人ともベトナムで指揮官として活躍した。戦争の負の側面を公然と語るのは、その時代では監獄行きを覚悟しなければならなかった。
■韓国軍による虐殺、民主化で明らかに
99年、韓国の「ベトナム戦争」観を揺さぶる出来事が起きた。
主要な週刊誌である「ハンギョレ21」が「韓国軍が、ベトナムで老人や子ども、女性をたくさん殺していた」との記事を掲載したのだ。
記事を書いたのは、ベトナムに留学中だった歴史専攻の大学院生、具秀セイ(ク・スジョン)さん(41)。韓国は92年にベトナムと国交を正常化し、具さんは翌年に留学した。97年暮れには、長いこと軍事政権によって弾圧されていた金大中(キムデジュン)氏が大統領に当選。こうした状況でパンドラの箱が開けられた。
ホーチミン市で今も事件の調査を続ける具さんに会った。きっかけは、韓国軍による民間人虐殺を調べたベトナム当局の内部文書を入手したことだったという。「妊婦や子どもを殺したという内容に驚いた。生き残った人から話を聞き、文書の内容が間違いないことを確認した」。具さんは、自らの聞き取りをもとに虐殺の被害が少なくとも9000人に及ぶとみる。
かつて韓国軍が駐屯していたビンディン省。タイビン村では、アヒルや鶏が小道を横切り、水田では水牛が遊んでいた。
「この傷を見てくれ」。グエン・トン・ロンさん(56)は、突然、ズボンを下ろして足の傷を見せた。手榴弾(しゅりゅうだん)の破片が体中に残っている。痛みに耐えられないときは、酒を飲む。この日も赤い顔をしていた。
事件は66年2月に起きた。朝9時過ぎ、集落に入ってきた韓国兵が、村人68人を1カ所に集め、うつぶせにさせた。一斉に銃撃し、手榴弾を炸裂(さくれつ)させた。12歳だった妹のフォンさんは頭をやられ、母は両足を一瞬にして失った。そこまで語ったロンさんが、目を真っ赤にして泣き出した。「母は死ぬ直前、助けてと叫んだ。私も足をやられ、動けなかった。母に何もしてあげられず申し訳ない」。村で生き残ったのはロンさんら3人だけだった。
犠牲者の名を刻んだ慰霊碑の脇に壁画がある。虎のマークをつけた猛虎部隊の兵士が、手榴弾を手に村人を追い立てる。家を燃やされ、泣き叫ぶ住民たち。ロンさんは、壁画を指さしながら「パク・チョンヒ軍は本当に怖かった」と言った。
ベトナムでは、虐殺事件のあった省の博物館が実態調査を進めている。「生後数カ月の子どもや老人が殺されている。赤ん坊や年寄りが武器を持っていますか。無抵抗です。本当にひどい」。フーイエン省の調査の責任者、グエン・ティ・キムホア副館長(47)が、虐殺の場所と犠牲者の数をまとめた報告書を読み上げた。省内で33カ所679人の犠牲を確認したという。
なぜ、武装していない人をたくさん殺したのか。聖公会大の韓洪九(ハ・ノング)教授は、朝鮮戦争との関連を指摘する。「兵士たちは、朝鮮戦争を体験した。共産主義者は人間ではない、殺されなければならない、という反共イデオロギーの中で成長した。『アカ狩り』への心理的な準備が整っていたのです」
韓国では、具さんの記事によって市民たちが動いた。民主化運動の担い手も多かった。「ハンギョレ21」で告発キャンペーンを展開した高ケイ兌(コギョンテ)記者(40)は「私たちは、日本の植民地支配の被害者だった。ベトナム戦争でも兵士が枯れ葉剤を浴びるなど、あくまで被害者だと思っていた。しかし虐殺が明るみに出て、加害者だったことがさらけ出された」と話す。
読者たちの募金でベトナムに慰霊公園ができた。韓国の市民団体が慰霊碑を建て、被害者に生活費を支援したり家を修理したりした。韓国人医師がボランティアで村の人たちを診察し、若者が現地でキャンプをして歴史を学ぶ。市民による謝罪と和解の行動は今も続いている。こうした動きに押されるかのように韓国政府も、学校や病院の建設を援助している。
98年、金大中大統領はハノイを訪れ、ベトナム戦争についてこう述べた。
「過去の一時期、不幸な時期があったことを遺憾に思う」
この言葉に対し、ベトナムのファン・バン・カイ首相は「過去に区切りをつけ、未来を見つめよう」と述べただけだった。共産党独裁のもと、ドイモイと呼ばれる改革開放で経済発展を進めるベトナムにとって、韓国は重要なパートナーだ。そうした配慮もうかがわれる。
韓国軍は虐殺について、きちんとした真相調査をしていない。「包括的な過去の清算」を掲げてきた盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権は、軍事政権による人権侵害の調査などを進めてきたが、なおこの問題に手をつけるまでには至っていない。
× × ×
一方、送り出された兵士たちは米軍が枯れ葉剤をまいた地域で戦い、10万人以上が後遺症とみられる病気に苦しむ。過酷な経験から精神を病んでいる者もいる。
ソウル市内に住む金泰根(キム・テグン)さん(62)は、65年から2年間、猛虎部隊の一員として派遣された。帰国してまもなく、頭が痛くなり意識を失った。入退院を繰り返し、仕事もできない。枯れ葉剤の影響で左足が細くなり、マヒして歩けない。「国のために戦争に行ったのに、こんな体になってしまった。治療法がないのがつらい」。世話をしてくれた妻に先立たれ、国からのわずかな傷病手当でひとり暮らしをしている。
ベトナム戦争は現在も、韓国の人々に重い影を落としている。
◇多くの国が派兵
ベトナム戦争は、冷戦下で多くの国がかかわった国際的な戦争だった。社会主義を掲げる北ベトナムには、中国が防空作戦部隊や道路建設部隊など、旧ソ連も軍事顧問らを派遣、北朝鮮も空軍パイロットを派遣している。
アメリカは東南アジアにおける共産主義の拡大を阻止するため、54年に軍事同盟である東南アジア条約機構(SEATO)を結成した。南ベトナムにはアメリカ、韓国に加え、台湾やスペイン、SEATO加盟国のオーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイも派兵した。
日本は戦闘には参加しなかったが、アメリカの要請もあり南ベトナムに経済援助を行った。72年までアメリカの占領下に置かれた沖縄の基地からは、米軍がベトナムに出撃した。日米安保体制のもとで横須賀や佐世保など本土の米軍基地も補給や修理など重要な役目を担い、ベトナムでけがをした米兵は日本で治療を受けた。
60年代後半には、アメリカやヨーロッパで反戦運動が高まった。日本でも作家の故・小田実氏らが65年に「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を結成し、反戦運動をリードした。
(桜井泉)
第2次大戦後、かつての宗主国フランスは、再びベトナムの植民地化をもくろみ軍を派遣したが、54年のディエンビエンフーの戦いに敗れて撤退。ジュネーブ協定により北緯17度が暫定軍事境界線と定められた。北部はホー・チ・ミン主席が指導し社会主義を掲げるベトナム民主共和国(北ベトナム)、南では資本主義のベトナム共和国(南ベトナム)が支配、対立した。南部では60年に南ベトナム解放民族戦線が結成され、北ベトナムの支援を受けてゲリラ活動を展開し、米軍、南ベトナム軍などと戦う。アメリカは、米ソの冷戦下で北ベトナムの勢力が広がることが世界的な共産主義の拡大につながるとする「ドミノ理論」を根拠に、62年に南ベトナムを支援するために軍事援助司令部を現地に置き公然と介入を始めた。64年、米艦艇が公海上で北ベトナムに攻撃されたとするトンキン湾事件が発生。ジョンソン米大統領は、65年に北ベトナムを直接攻撃する北爆を本格的に始め、海兵隊も上陸させた。しかし、腐敗し独裁色を強める南ベトナム政権は民衆の支持を失い、解放戦線の攻撃を抑えることもできなかった。戦費の拡大、人命の喪失、世界的な反戦運動などに直面したアメリカは撤退を決意。73年1月、南北ベトナムとアメリカ、南ベトナム臨時革命政府の4者がパリ和平協定を結んだ。しかし北ベトナムと解放戦線は攻勢を強めた。75年4月30日、サイゴン(現ホーチミン市)が陥落し、南ベトナム政権は崩壊、戦争が終わった。翌年に南北統一選挙を実施、ベトナム社会主義共和国が生まれた。 アメリカの戦死者は5万8000人、戦傷者は30万人。ベトナム側の戦死者は、百数十万とも200万人以上ともいわ
れ
る。
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