会の名称「全ての生命を尊ぶ」ことはいうまでもなく、 地球や地球に生きる鉱物や水蒸気や植物、動物、人間を 含む宇宙全てにおけるあらゆる魂たちと統合をし、あらゆる魂たちが 愛と自由の元活躍出来ることを目指します。
2022年7月28日木曜日
よく
ここまでガマンして、偉いわ。なんか東須磨教員カレ一いじめの部類やなあ。
結局は、いじめ社会!なのよね。
立場弱い者、給料安い者は、さらにさらに追い打ちをかけられて、精神までボロボロにされるという。
この社会にしたのは、紛れもなく、安倍ら官僚を筆頭に、自分さえよければよいと、弱者に手を差し伸べなかった人間たち。だから自民党に投票する。同類人間やから。
しかしその人間たちは、後に寝たきり、介護、認知症に、、当然の報いやな。
だから、大阪府に行動制限受ける高齢者なんかも、当然の報い。経済追いかけて、弱者に手を差し伸べなかった人間が多いから。世代の全体責任。
外出制限という多少のストレスを味わい、マスクをしていない人に対する嫌悪感とコロナ移されたら困るという恐怖心、、これらが報いなのである。
だから人為コロナも、良いところ、たくさんありよね〜
結局、常日頃から病院かかるのは当たり前、、みたいに、自己管理不十分で病院かかってる人、メチャクチャ多いからな、今の高齢者は。
ま!せいぜい行動制限のあいだに、自分とむきおうて
下さいな!→現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。
今回紹介するのは「過去に勤めた会社で度々パワハラを受けたり、同僚とのトラブルがあったりしました」と編集部にメールをくれた36歳の男性だ。
■「太陽を見たことがなかった」
早朝4時に出勤し、帰るのは早くて午後9時。深夜、日付が変わる時刻になることもたびたびあった。昼食はサンドイッチやおにぎりといった手づかみできるものを15分で流し込む。繁忙期にはパイプ椅子を並べたり、床に段ボールを敷いたりして泊まり込んだ。毎月の残業は200時間を超えたが、手当がつくのは30時間だけ。手取り額は20万円ほどだった。
ユウトさん(仮名、36歳)が高校卒業後、初めて勤めた地元スーパーでの経験である。異常な働かされ方を「出退勤のときに太陽を見たことがありませんでした」と表現する。
「湯船に入ったまま、まばたきしたつもりが気付くと(数時間が経過して)朝になっていたことが何度もありました。遅刻をしないよう、夜は靴下を履いてダウンコートを着て眠り、起きたら20秒で家を出られるようにしてました。始発電車に乗るために、降りている遮断機を無理やり上げて線路を渡ったこともあります。今思うと私も異常な状態でした」
このスーパーは地域に数十店舗を展開する地場企業。ユウトさんは正社員として採用され、鮮魚などを扱う部門に配属された。仕入れた魚をさばき、パック詰めした後は、商品の陳列や接客も任された。
上司の口癖は「休みたいとか、早く帰りたいとか、権利を主張するんだったら、まずは義務を果たせ」。義務とは売り上げ目標を達成すること。ユウトさんは「当時は上司の言っていることがおかしいということがわかりませんでした。高校では(労働関連法について)何も教えてくれませんでしたから」と振り返る。
問題は長時間の過重労働だけではなかった。ユウトさんは先輩社員らによるいじめの標的にされたのだ。マイナス20度の冷凍庫に1時間以上閉じ込められたり、眼鏡を製氷機の中に隠されたり、腐ったアサリを顔面に押し付けられたり――。別の社員がミスをしたのに、なぜかユウトさんがアルミ製のトレーを頭にたたきつけられたこともあった。
「まるでおもちゃにされているようでした」。自分が狙い撃ちにされたのは、高卒で一番年下の新入社員が仕事のストレスのはけ口にされたからではないかと推測する。
結局2年が限界だった。会社を辞めた直接のきっかけは、例によって湯船で寝落ちしてしまい、3時間ほど遅刻したこと。びしょ濡れのまま出勤し、何時間も上司の後をついて回って謝ったが、その間ずっと無視され続けた。ようやく口を開いた上司から出てきたのが「誰、君? 給料泥棒くん?」という言葉だった。
それまでも辞めたいと訴えるたびに、引き留められてきたが、ようやく退職する決心がついた。
■食料品の宅配ドライバーの仕事に再就職
しかし、共働きの両親には、短期間で会社を辞めたユウトさんのことが努力不足、我慢が足りないと映ったようだという。特に父親からは「水が冷たくて辞めたんだよな」と嫌味を言われたこともある。その父親に急き立てられるようにして再就職したのが、食料品の宅配ドライバーの仕事だった。
そこではさすがに前職のような長時間労働はなかった。ただ「太陽が出ている時間帯に帰れることに罪悪感がありましたし、なんだか社会から必要ない存在だといわれているように感じてしまいました」とユウトさん。それだけ、初めての職場で受けた“洗脳”が強烈だったのだろう。
一方で新しい職場は、ノルマが厳しかった。新規顧客の獲得や関連商品の販売といった数値目標が課され、全員の成績が事務所のホワイトボードに書き込まれた。
ユウトさんは成績の悪いほうではなかったが、契約が取れない日もある。そんな日は退勤しようとすると、上司から「ゼロってことはないよな」「当然、これから契約取ってくるんだろ」とプレッシャーをかけられた。
「配送は1軒あたり5分で済ませるように言われていました。そもそも営業するための時間なんて取れないのに、ノルマなんて無理なんですよ」
正社員としての採用だったが、2年ほどで辞めた。
いずれもまともとは言いがたい会社だったわけだが、ユウトさんの困難はむしろここから始まった。それ以降、正社員として働くことが怖くなったのだ。
ユウトさんは宅配ドライバーを辞めた20代前半からは、スーパーやドラッグストア、家電量販店などでパートやアルバイトとして働いてきた。この間も就職活動は続けており、正社員として採用が決まったことも7、8回はある。接客業で鍛えられたユウトさんの受け答えはしっかりしており、敬語も使えるからなのか、内定を得ること自体は難しくなかった。
ところが、出勤日が近づくと「とにかくこの場から逃げ出したい」というプレッシャーに押しつぶされそうになる。結局正社員の内定はことごとく断ってきた。直前まで勤めていたパートやアルバイトはすでに辞めている。プレッシャーからは解放されるものの、今度は収入がなくなることへの不安に襲われる。
「『自分にはできないんじゃないか』『またダメなんじゃないか』と思ってしまうんです」とユウトさんはため息をこぼす。もう10年以上、そんなことの繰り返しだ。
■「発達障害」と診断された
1年ほど前、定職に就けないユウトさんを見かねた家族から「発達障害なのでは」と指摘を受け、心療内科に足を運んだ。1カ所目の病院では発達障害ではないと言われたが、2カ所目の病院で自閉症スペクトラム(ASD)と診断された。
あらためて振り返ってみると思い当たることがあると、ユウトさんは言う。子どものころから人見知りが激しく、板書を書き写すことが苦手だった。大人になってからも人間関係の距離感をつかめず、冗談で言ったつもりのことがセクハラと受け止められたことがあった。初めて働いたスーパーでも、魚を仕分けたり、さばいたりといった作業が同僚に比べて遅かったのは事実だという。
こだわりが強い性格が災いしてパート先での居心地が悪くなったこともある。ユウトさんは「~~円からお預かりします」「~~のほうをお持ちしました」といったいわゆる「バイト言葉」を聞き流すことができないという。同僚が使っているのを耳にすると、指摘せずにはいられないのだが、それにより関係がぎくしゃくしてしまうのだ。
一方でユウトさんにとって発達障害の診断は大きなショックだった。理由は? と尋ねると、少しためらった後、「自分の中に障害者に対する偏見と嫌悪感があるからです。生産性がない、必要のない人たちなのではないかと思ってきました」と打ち明ける。
見下してきた障害者に、自分もなってしまった――。障害者への偏見が、自身を一層苦しめる呪いになっていることは、頭ではわかっている。しかし、長年の価値観を簡単に改めることは難しい。ユウトさんは今も診断結果を受け入れることができないという。
障害者への偏見の善しあしは別にして。発達障害の人は得手不得手の凹凸の落差が大きいとされる。ただこうした凹凸は誰にでもあるともいえる。
発達障害と診断するかどうか、最終的には医師が総合的に判断する。以前取材で話を聞いた精神科医によると、たとえ問診や検査の結果が同じでも、本人が生きづらさを感じていなければ、あえて診断しないこともあるという。
ユウトさんが振り返って例に挙げた子ども時代や人間関係のエピソードはたしかに発達障害の特性にもみえる。一方、たらればの話にはなるが、もしユウトさんが初めて勤めたスーパーの労働環境があそこまで劣悪ではなく、働き続けることができていれば、病院に行く必要もなく、発達障害と診断されることもなかっただろう。
ユウトさんを発達障害当事者にしたのは、働き手をゴミのように使い捨て、効率ばかりを優先する悪質企業や、それを放置してきた社会なのではないか。
■40人いた同期のうち残っているのは数人
ユウトさんは子どものころから、魚を食べることも観察することも大好きだったという。初めて勤めたスーパーで鮮魚売り場に配属されたときは、夢がかなったと思った。残念ながらそこは超絶劣悪職場だったが、ユウトさんは今も働くこと自体は好きだったし、やりがいもあったと振り返る。
「魚をさばくのは遅かったですが、売り場づくりや接客は得意だったんです。お客さまに旬の魚を勧めたり、おいしい食べ方を伝えたりすることが楽しかった。会社がもう少し人を財産として扱ってくれていれば……」
記事の中ではユウトさんが特定されないよう、匿名表記にしているが、そのスーパーを展開するのは、業界では安くて新鮮な魚を提供することで知られた企業だ。一方でユウトさんによると、当時40人いた同期のうち今も残っているのは数人だけだという。いずれにしても、働き手を使い捨てることで維持できる安さや品質なのだとしたら、それはまがいものだ。それをなんら疑問に思うことなく享受している私たちも、もしかしたら共犯なのかもしれない。
ユウトさんの同級生の中にはすでに子どもや家、車を持ち、“普通”の生活をしている人もいるという。翻って自分はどうか。今後、正社員として採用される機会は間違いなく減っていくだろう。30代半ばを過ぎた今、「自分の未来がどんどん閉ざされていくような気がします」。
本連載「ボクらは『貧困強制社会』を生きている」では生活苦でお悩みの男性の方からの情報・相談をお待ちしております(詳細は個別に取材させていただきます)。こちらのフォームにご記入ください。
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