2026年6月13日土曜日

戦後日本を朝鮮人に支配させた「ロシアのスパイ、ノ一マン」

だからマッカーサーは、後に「戦勝国が敗戦国を裁くのは間違い」などと、言ったのではないか?→対米戦争に駆り立てたのがロシアのスパイで、戦後マッカーサーの側近となり、日本を共産主義国にしようと企らみ、マッカーサーらにロシアのスパイと気づかれることなく朝鮮人らに日本を支配させた、GHQの占領政策に深く関わったハーバート・ノーマンというカナダ人がいた。彼は、天皇制の廃止を目論み、日本人に自虐史観を植えつけ、近衛文麿をA級戦犯に仕立て上げたという。そして東西冷戦の状況下で、彼にソ連のスパイ疑惑が浮上する――彼は一貫して否認したが、果たしてその真相はどうだったのだろうか? ※本稿は、岡部伸著『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。 【謎の自殺を遂げたハーバート・ノーマン】 東京・赤坂にある在日カナダ大使館の地下二階に、「E・H・ノーマン図書館」と名づけられた大使館付属の図書館がある。大使館のホームページによると、「2001年5月、カナダ大使館新庁舎開館10周年にあたり、生涯を通じてカナダと日本の人々の相互理解と友好促進に力を尽くしたカナダ人歴史学者・外交官、E・ハーバート・ノーマン(1909〜1957)を記念して命名され」たとのことだ。 だが後述するように、ノーマンは「カナダと日本の人々の相互理解と友好促進に力を尽くした」と単純には評価できない「経歴」の持ち主である。 ノーマンは、カナダ人宣教師の息子として長野県軽井沢に生まれ、日本で育った。カナダのトロント大学、英ケンブリッジ大学を経て、一時カナダに帰国。その後、米ハーバード大学大学院に入学し、のちに駐日アメリカ大使に就任するエドウィン・ライシャワー教授の下で日本史を学んでいる。 同大学院を修了してカナダ外務省に入省すると、外交官として再来日したが、太平洋戦争が始まると、交換船でカナダに帰国。日本の敗戦後、再び来日し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策に深く関わった。日本語が堪能なノーマンは、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官の通訳を担当するなど、GHQの政策に強い影響力をもっていた。 しかし、東西冷戦下のアメリカにおいて、ノーマンに対し、共産主義者でソ連のスパイではないか、という疑惑がもち上がる。1905年、カナダ外務省は1946年8月から駐日カナダ代表部主席を務めていたノーマンを解任する。 カナダ外務省からカナダの国連代表に転じたノーマンに対し、米上院司法委員会国内治安小委員会が共産主義との関連を追及するのは、1951年8月からだ。 カナダ政府は、ノーマンは共産党員でもソ連のスパイでもないとして、ニュージーランド高等弁務官、エジプト大使に転進させたが、1957年4月、カイロで謎の自殺を遂げた。 【ケンブリッジ在学中に共産主義に傾倒】 果たして真相はどうだったのか。英国立公文書館には、MI5(英保安局)が監視、調査したノーマンの個人ファイル(KV2/3261)が「共産主義者と共感者」のカテゴリーのなかにある。 「カナダ人 コミュニスト(共産主義者あるいは共産党員)」と記され、ノーマンがMI5から要注意人物としてマークされていたことがわかる。 ノーマンが、英ケンブリッジ大学に入学したのは1933年10月のことだが、同年、ドイツではヒトラー政権が誕生しており、ファシズムの脅威が拡がるなかで、再び世界大戦が始まる危機感から、少なくない学生が共産主義に救済の道を見出していたころである。 同ファイルには、MI5のガイ・リデル副長官が王立カナダ騎馬警察のニコルソン長官に宛てた1951年10月9日付の書簡があり、次のように記されていた。 -------------------------- 1935年4月、われわれはロンドンで開催された「インド学生秘密共産主義グループ」の会議の報告を入手した。同会議の主催者のB・F・ブラッドレーはイギリスの共産主義者として知られているが、会議で「ケンブリッジ・グループ」について話し、E・ノーマンというカナダ人の僚友と連絡を取って接していると話した。彼(ノーマン)は、植民地関係(植民地の学生を共産主義活動に勧誘する)活動の責任者で、四人のインド人学生と接触し、四人は来学期から活動に加わることが期待される(部分) -------------------------- このように、MI5はノーマンがケンブリッジに在学中の1935年の時点で、彼を共産主義者と見なしていた。同ファイルによると、ノーマンはケンブリッジ在学中、共産主義に感化され、インド人学生の勧誘を行なっていたことになる。また、「大英帝国のレーニン」を自称し、スペイン内戦に参加して戦死した共産主義者、ジョン・コーンフォードはノーマンの友人だった。 こうした「赤い疑惑」に対して、カナダ外務省は1950年10月から数度、ノーマンを尋問するが、ノーマンは一貫して否定し続けた。その言葉を信用して、カナダ外務省は前述のように海外の大使館にノーマンを転出させた。その後、すでに記したように、ノーマンは1957年に赴任先のカイロで謎の自殺を遂げることになる。 【戦後日本を断罪した「ノーマン理論」】 ノーマンの日本に対する関与は、1945年8月25日に来日してから翌46年8月にカナダ代表部首席となるまでのおよそ一年間、GHQで民間諜報局(CIS)、対敵諜報部(CIC)の調査分析課長を務めていた時期に行なったことに集約される。 ノーマンは、マッカーサー最高司令官が最も信頼していたアドバイザーの一人であった(マッカーサーと昭和天皇との有名な会見の通訳を務めたのもノーマンである)。 GHQで当初、主導権を握ったのが、ルーズベルト前大統領のニューディール政策を支持するニューディーラーたちだった。コートニー・ホイットニー准将率いる民政局(GS)がその中心で、同局のチャールズ・L・ケーディス大佐らは日本を二度と戦争ができない国にするため、経済力を弱めるだけでなく、日本人の精神構造を変えることをめざした。 そのような日本の弱体化を目論む彼らの「民主化」の理論的根拠となったのが、ジャパノロジスト(日本研究家)として当時、最も権威のあったノーマン理論だった。 ハーバード大学の博士論文として執筆し、研究員として勤めていた「反日親中」のシンクタンクだった太平洋問題調査会(IPR)から、1940年に都留重人の推薦で出版した『日本における近代国家の成立』(岩波文庫)では、戦前の日本は封建的要素が残る歪な近代社会と指弾され、日本が中国大陸で戦争をしているのは、日本が明治維新後、一貫して専制的な軍国主義国家であったからで、悪いのはすべて日本であるという論調で断罪されていた。 戦前の日本を遅れた暗黒時代と規定するノーマンの視点は日本の戦後教育そのものだが、そのような自虐的な史観を植えつけた一人がノーマンにほかならない。 【近衛を戦犯として告発、自殺に追いやる】 ノーマンは、公職追放でも民政局のケーディス次長の右腕として関わった。GHQは1945年10月4日の指令で、内務大臣、警察幹部、特高警察の罷免を指示。 さらに政治家、官吏、教員から地方政界、財界、言論界まで20万人以上の日本人を公職から追放。対象者の人選にはケーディスが核となり、ノーマンのほかに都留重人、羽仁五郎が協力したといわれる。 参謀第二部(G2)部長のチャールズ・A・ウィロビー陸軍少将は、『GHQ知られざる諜報戦』(山川出版社)で、「その過程(公職追放)でGSとG2との対立は最高潮に達した。 というのも、GSは"民主化"という口実のもとに、彼らが行おうとしていた"左寄り"とも思える政策の邪魔になる人間を次から次へと追放してしまったからである。日本人からもアメリカ人からも、そしてGHQの内部からも『GSは日本の最良の頭脳を取り除いてしまった』という批判の声が高まった。 ノーマン理論に基づく占領改革は、日本共産党を「民主主義勢力」と見なした。同年10月10日、東京・府中刑務所に服役していた共産党幹部を釈放したのを皮切りに、教育界と産業界、メディアにおいて共産勢力の台頭をもたらし、占領下の日本は、あたかも革命前夜の様相を示すようになった。 さらにノーマンは、近衛文麿と木戸幸一をA級戦犯指名するにあたり、起訴するために意見書をまとめた。GHQに提出するが、共産主義を警戒する近衛への非難が強かった。 10月に近衛はマッカーサーから新憲法起草を指示されており、戦犯の指名を受けるはずはなかったが、12月6日「A級戦犯」として逮捕令状が出され、近衛は出頭期日の12月16日、命を絶った。 日本国憲法の制定にも関与 ノーマンは日本国憲法の制定にも関わっている。1945年9月、ノーマンは都留とともにマルクス主義者で在野の憲法学者である鈴木安蔵を訪ね、憲法草案の作成を働きかけた。 鈴木は、天皇制廃止を主張していた元東京帝国大学教授で、戦後はNHK会長も務めた高野岩三郎と憲法研究会を結成。45年12月26日に政府の改正草案より一カ月も早く憲法草案要綱を発表する。 この草案を評価したGHQが最終草案にそれを取り入れたとされることから、日本国憲法の思想のオリジナルは日本側にあり、GHQから押しつけられたものではないという主張がある。 しかし、ノーマンは天皇制の廃止を求めていた。鈴木が回顧したところによれば、ノーマンに「きみたちの憲法草案も共和制ではないが、どういうわけだ」と質問され、「いまの状態でいきなりそれをもちだしても国民的合意を得ることがむずかしいからだ」と答えたところ、「いまこそチャンスなのに、またしても天皇が存在する改革案なのか」と反論されたという(遠山茂樹編『自由民権百年の記録』三省堂)。 ノーマンが重視したのは、第一条の「天皇は日本国の象徴であり、(中略)この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」の部分で、「国民の総意」を口実に天皇制をいつでも廃止できるようにしたといわれる。 ノーマンが唱えたように天皇制の廃止に至らなかった日本と、君主制が消滅した共産主義のソ連ないし中国とを比較した場合、どちらがより民主化を達成したといえるのか。鬼籍に入ったノーマンはどう考えているのだろうか。

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