ネットより
部落の人間と朝鮮人というものは、非常に性格が似ているので驚くことがあります。ともにウソつきで、妬みをもっていて一般の日本人を自分達と「同じ」と思わず、徒党を組んで悪さをしまくるのです。
朝鮮人がもっている特有の性質を、どういうわけだか部落民も持っています。何故、そうなるのでしょうか? これをしっかりと考えていくと原因があるのです。部落民と朝鮮人は同じだったということに気が付くのです。部落民は日本の社会において市民権をもたない人間のことを言います。
昔、平安時代の頃、朝鮮半島から船に乗って亡命してくるような人間がいたのです。そして、日本の海岸にたどり着いたのです。どこへ住んだらよいのかというと、日本には村人たちもいるのです。村人たちの所へ溶け込めるのかというと溶け込めないのです。
まず、言葉が違います。村人たちも訳のわからない人間を仲間にしません。村には住めないのです。村には住めないので、この人間達は二つに分かれたのです。山に住むか、川の畔に住むかということです。
今、京都府で問題になっている在日朝鮮人問題とは、住むところがなくて京都のダムの辺りに住んでいるのです。堤防の上とかに住んでいるのです。それと同じ事で、河原に住んだ部落民がいるのです。村には住めないので川の畔に住んだのです。
そして、一般の農業はできなから、村人たちに話をつけて牛をさばいたり、革をつくったりした仕事に従事したのです。
山に逃げたのを「サンカ」と言ったのです。東京でもサンカはいます。秩父にサンカはいたのです。サンカもそうで、絶対に定住しないのです。村人たちが受け付けないので、定住しないのではなく、できないのです。
サンカが持っているものは鍋一つです。それからウメガイという短剣をもっています。これしか財産はないのです。ウメガイで竹細工をするのです。ほうきや、ザルをつくるのです。そのような物をつくり、村人たちのところへ来て米と交換したのです。
サンカには、他に産業はないのです。河野畔で魚を取り、鉄なべでグズグズ煮て食べたのです。サンカはお風呂も入るのです。川に穴を掘り、水をいれます。そこに焚火した石を入れるのです。すると、御風呂になるのです。そのような生活です。
そこで一日二日過ごすと移動するのです。もう竹細工は売ってしまったので、移動して他の村に行くのです。山から山を移動していくので住所はないのです。これも明治になり、徴兵検査が始まり「サンカはどうするのか?」ということになり、明治5年に苗字をもらい日本人にしてもらったのです。
部落民はサンカとは違い、河原者(かわらもの)と言ったのです。河原にむしろの小屋をつくりそこに住んでいたのです。歌舞伎も最初は、河原者として始まったのです。彼等が踊った踊りだったのです。だから、歌舞伎と言ったのです。河原者が歌舞伎になったのです。最初は河原者が踊ってお金をもらったのです。
差別されたというのは、言葉が違ったということです。朝鮮語でしゃべっていたら日本人には通じないので、嫌でも差別されたのです。その連中がまとまって河原に住んでいたのです。
河原者と乞食は同じようでちょっと違うのです。江戸時代の身分制度は士・農・工・商・穢多・非人と言ったのです。穢多(えた)は、穢多なのです。非人は村の掟を破ったりして追放された人なのです。
非人は一般的に言うと日本人です。たた、村にはおれなくなった人です。或いは無宿者といい、籍がどこにもないのです。それを非人と言ったのです。穢多は一つの職業みたいになっていたのです。穢多とは、「汚れている」という意味です。
動物を葬ったり、解体していて「ケガレタ血」だと言ったのです。非人は「ケガレタ血」ではないのです。非人は、お許しがあると普通の身分に戻れたのですが、穢多はもどれないのです。
しかし、このルーツが朝鮮にあると見抜いた人は、僕くらいで他にはあまりいません。部落とは、朝鮮人です。だから大阪の方へ行くと、部落解放同盟と朝鮮人の集団は、同じルートだから仲良くなるのです。
橋下市長は、お父さんが穢多とも言われているし、朝鮮人とも言われています。どちらだってよいのです。日本人から見たら同じようなものです。
そのような問題として、僕も実際差別の現場を見たことがあります。ひどいものです。新潟へ行った時に穢多が来たのです。「あれは穢多なんだよ。汚いからともかく触ってはいけない。傍に近寄ってはいけない」と言うのです。お金もあげるのですが、放り投げるのです。傍によっても汚らしいのです。「穢多が触ったものはすぐに捨てる」というそういう差別です。気の毒ですが、そのような差別問題があるのです。
穢多の差別問題は、根本に朝鮮問題にあると思います。
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