2013年11月8日金曜日

父親

前に少し書きましたが、わたしの死んだ父は神戸市消防局に勤める地方公務員でした

わたしは幼いころから両親と会話をした覚えがあまりありません

たぶんしゃべらない子どもだったと思います

親の育て方で、そうなったのだと思いますが・・・

21で結婚して家を出てからは親のほうがなんやかやかまってくるようになって会話も出てはきましたが・・・

わたしが何歳くらいだったか、、、高校生だったか社会人になっていたか忘れましたが
父親が母親に話しているのが聞こえてきました

「今は来年度の予算とらなあかん時期やからな
消防の風呂、水出しっぱなしや・・・」

消防勤務は泊まりです
なので、署で風呂に入る日は、たぶん全員が入り終えるまで水を出しっぱなし
という意味なのだと思いました

普段使ってる量よりも多く水道代としての予算を確保するためだと思います

あと、もうひとつ、1989年の神戸市長選挙の時、この時はわたしはもう結婚していましたが、実家に行ったときに聞こえてきた言葉です

「今回の市長選なあ、、消防のもんは全員笹山入れゆうことなっとんのや」って・・・

それが聞こえてきた時は、わたしは「ふーん」くらいにしか思いませんでした

わたし自身、からだを壊して自然食をして、それから動物愛護活動を始めて、だんだんとこういうことに大きな疑問を持つようになってきました

その笹山氏は、選挙で当選して市長になることになるのですが・・・
笹山氏について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%B1%B1%E5%B9%B8%E4%BF%8A

このことを裏付けるものがないか、ネットで調べていて見つけました

個人のブログです
このブログを書いてる本人を、わたしは全く知りません
政治のことなどいろいろ書いているようですが、
わたしはこの人のように
「日本はすごい」とか、「日本人は素晴らしい」なんて、思ってはいません
(ちょっと読んでみて思いました)

ただ、この選挙のことが書いてあったので貼らせてもらいました
http://blog.livedoor.jp/pegasus2011/archives/4051183.html

こういうのひとつ見ても、いったい、公務員って何なんだ
って思うんですよ

父親は外では人受けは良かったですが、動物に対しては優しい人ではありませんでした

どこからか犬をもらってきたりしていたようですが、ろくに散歩にも連れて行っていませんでした
母親ももちろん行きませんし、
なので、そういう両親をみて育った私たち兄弟3人も、犬の散歩をしたことがありませんでした
「繋ぎっぱなし」です

私が家を出てから、すでに結婚していた兄が同居し、犬2匹をどこからかもらってきて飼っていましたが、兄もやはり散歩させていませんでした

わたしが小学生のころだったと思いますが、隣の家の敷地でのら犬が出産しました
その家は男性がいなかったので父親が子犬をつかまえました

玄関の土間に入った子犬たちをわたしは「かわいい」と思ってみていましたが、父は
「このまま池のなかに放る」
って言いました

「えっ」って思いましたがそれだけで何も言えませんでした

今でも覚えています

平成8年に、64で父は死にました

父が死んでだいぶたってから・・・

たぶんわたしが動物愛護活動を始めたころで、保護はしていませんでしたがパネル展などをしていたころだと思います

母親から聞かされました

あの時ののら犬はなあ

やっぱり可哀そうやゆうて
お父さん、藍那道(近所)においたんや
だれかもろてくれるかもしれへんて・・・


結果がどうなったのかは知りません
おそらく父は「置き逃げ」をして、犬がどうなったかなんて見ていないでしょう

そしてもう一つ、ショックな事を母親から聞かされました

やよいがかわいがっとった黒猫なあ
お父さんが仕事いく時、有馬温泉の旅館街に棄てたんや

「エッ!」びっくりしました
その黒猫は父が近所の家でもらって来た子猫で、わたしはべた可愛がりはしていませんでしたが、夜はいつもわたしのふとんに入ってきて一緒に寝ていましたので、、、

わたしが何歳の時にもらってきたか覚えてないのですが、いなくなったのは高校生の時です
5歳とか、そこらだったんじゃないか?と思います

父はわたしに
「チコな、どっか行って帰ってこんわ」って言ってました

ほんとのことを言った母親にわたしは
「なんで棄てたん??」って聞いたら

「近所の家入っておいてあるもん食べたりして悪いことするから」って・・・

母親に言いました

「チコのごはんが足りてなかったんちゃうん?
近所かって、猫に入って来られて食べられるようにしとんのも悪いやん」って言って

それ以降、父親の仏壇に手を合わせることも、線香1本立てることもしなくなりました

母親にも言いました

猫棄てた人に線香なんか上げる気ないわ・・って


その後すぐあとくらいに犬猫の保護を始めるようになって、母親一人で住む(兄一家とは嫁姑関係がうまくいかず結局母一人暮らしになっていたので)家に帰っておいでと言われ、わたしも田舎のほうが保護をしやすいと思っていたので、神戸市北区の実家に戻りました

でも母親とはうまくいきませんでした

うまくいかない理由は他にもあるのですが、一番の理由は

見た目が若くてきれいな犬とか、人に「ええ犬やな」って誉められた犬に対しては
「この犬はきれいやから、おいたってもええで」と言い

老犬(神戸西警察から引き取った「ゆうた」「ろん」「のん」)などには

「汚い!くさい!死ね」と言葉を浴びせました

だからもう、家のまわり一周つないでも場所が足りない時とか、もう命が危ないくらいの老犬とか元気のない子とかも
「猫舎」に隠して住まわせたりとか、、、文句言われないように
そんなふうなこともしていました

でも、そんな母親とうまくいくはずもなく、
そしてしょっちゅうやってくる近くに住む姉や兄も母親の味方なので
わたしが家を出て福知山に越したのですが、、、、


父親は定年までの最後10年近くを神戸市北区の「有馬消防署」で勤務しました

火事や救急で、旅館に行くこともあって
「このあたりなら猫を棄てても餌をもらえるだろう」と思ったそうです

わたしは自然食をしたり、動物愛護を始めてからは親に言いたいこと何でも言うようになりました

親でもいけないことはいけないって、はっきり言います

親だからって偉いんじゃないんです

それで関係が成り立たないのならそんな関係続けても仕方ないって思ってます

価値観って、とても大事です

一番大切な「命」というものに関して価値観が大きく違うと
わたしは肉親でもつきあいをやめました


ただ、そういうわたしも偉そうにいえないんです・・

動物愛護活動を始めるまで、助けられた犬や猫を助けないでほっておいたことが何度かありました

映画「犬と猫と人間と」を観て、ものすごく反省したのだけれど・・・
反省しても、もう遅いです
その子たちはもう目のまえにいませんから
後悔しても手遅れなんです

小学生の時に、学校帰りに出逢ったのら犬に給食の残りのパンをあげたり、自分では覚えてないのですが、子猫を拾って帰って母親に返しておいでと言われ泣きながら返しに行ったこともあるそうですが・・・・

そういう気持ちが、大きくなるにつれてだんだんと薄れてきたのでしょうね・・

一般的な世の中の流れに飲みこまれて・・
高校生くらいからは、特に生きていることに意味を感じなくなったと思います

勉強なんてしたって何の意味があるのか?と、
特になりたいものもなかったので、大学なんて行く意味ないだろうと・・・

部活のバスケがきびしくしんどかったので、授業中はほとんど寝ていました

卒業して、、就職して、、、結婚をして、、、、

自営業をしていた夫の手伝いに毎日忙しく、一番大切な「命」を、偶然出会った「命」を
助けませんでした

その罰があったたというか、、わたしのとって最後の気付きのチャンスを天がくれたのでしょう

それが大きな交通事故でした

それをきっかけに、自然食を始め、そして動物たちのおかれている不幸な境遇を知ることになりました

あの交通事故のおかげです

あの事故のあともそのままの生活をしていたなら、わたしという人間はもう終わっていたでしょう

何も考えず、何も感じず毎日を送るか、、
自分さえ守ればいいとか、自分の子どもさえ守ればいいとか、、、
そんな人間になって、
死んだように生きていたと思います

なので、わたしが感謝するのは、あの「交通事故」です

しんどいことがあっても、それ以上のものを手に入れることが出来る

人生を180度変換させてくれた交通事故に感謝です

たぶんあの事故で気付かなければ、その後もっともっと死者を出すような事故を起こしていたかもしれません・・・

今後わたしがどうなるかは、わたしの生き方にかかわってくるのだ
と思います


父親は60で定年後、二次就職をしている間、64で死にました

元々糖尿があったのですが、最終的に
C型肝炎→肝硬変→がんが肺に移転して死にました

入院して、最後の4カ月くらいは壮絶でした

入院していたのは、神戸市北区の「社会保険中央病院」でした

担当医に、「新薬」を使ってみたいと言われ、新薬で治療をしていました
「人体実験」ですね・・・

週に一回担当医の回診があります
一度その場に居合わせたことがあります

父親は、担当医が部屋に入ってくるまでにわたしに言いました
「一階のキャッシュコーナーで1万円おろしてきてくれ」って、、、

回診にきた若い男性の担当医に、一万円を渡していました
母や姉にも聞きましたが、毎回1万円を渡していたようです

この病院は患者から謝礼を受け取ってはいけないことになっていました

「渡すほうも渡すほうだし、受け取るほうも受け取るほうです」

父はだんだんと苦しみが強くなり、痛み止めのモルヒネも効かなくなりました
家族の顔も名前もわからなくなりました

とても苦しいようで、ベッドの枕元に設置してあった、なんていうんでしょうか、、

呼吸を楽にするために、鼻に管を入れて酸素を送るのですが、枕元に設置してあった、なかで泡がブクブクしているビンみたいなものを手で握って割ってしまったこともありました

わたしが一晩病院に泊まった時も、寝れないと言って車イスで休憩所に連れて行ってくれと言われ、車イスを押していきました

父は肺がんなのに、病院で隠れてしょっちゅうたばこを吸っていました

肝臓が悪くなってからも酒をやめませんでした

結局、いいかげんな生き方をしてきているんです

動物に対しても、自分に対しても、、、

で、病気になったら必死で助かりたいって医者に金渡して、、、

最期息をひきとる直前、一瞬だけ、正気にもどって一言だけ言って他界しました

母親は担当医に「献体して欲しい」と言われ、それに応じていました
新薬を使った結果が知りたかったのだと思います

以前のわたしだと、きれい話みたいに、、「お父さんようがんばったな・・」
みたいに終わらせてたと思いますが、、、

今のわたしには、そうは思えません

ドラマ「白い巨塔」みたいに思えるし、、、

自分の「親」というものを冷静に見れます


やっぱり弱い生き物にひどいことしたら自分に返ってきます
動物にひどいことするのもだし、そういう人って、生き方自体、いいかげんなんじゃないか?って、父をみてそう思いました

たぶん父は、死んでおしまいじゃなく、
今でもあの世で苦しい「修行」をしているのではないか?
って思えてきます

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