2021年8月31日火曜日

ハッキリしていてよろしい

他人に嫌われないように誰にでも「いい顔」した結果、人間関係に疲れてしまう――それではいつまでたっても良好な人間関係をつくれないと加藤諦三氏は警鐘を鳴らす。無理せず適切な人間関係をつくるためにはどうすればよいのか。 加藤諦三氏は著書『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』の中で、人間関係に悩む方が「嫌われたくない症候群」を抜け出し、人生を充実させるためのアドバイスを送っている。本稿では他人の評価を気にすることなく、自己実現に至るためのアドバイスを送る一説を紹介する。 ※本稿は、加藤諦三著『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。 好き嫌いをハッキリすれば、嫌われるのは怖くない 人間関係の悩みを解決するためにはどうした心構えが必要か――受容的構えの人は、人を愛そうと決意してみることである。すると自分はいかに依存心が強いかに気がつくのではないだろうか。そして案外嫌われるのは怖くなくなる。受容的構えの人は、わけもなく嫌われたらたいへんだと感じている。 とにかく自分が何者であるかがわからないかぎり何事も始まらない。自分がメダカだか、ヘビだか、鷲だかもわからないのでは、何をどうしてよいかもわからない。 そして自分がわかったら、エネルギッシュで明るい人を観察することである。するとそういう人は、自分と違って受容的構えで生きていないことがわかる。つまり悩んでいない人は、愛の問題はいつも、愛することである。 人から理解されることを求めているのではなく、生産的に生きている人たちは、人を理解しようとしている。自分のつらさを訴える前に、人の話を聞いている。人の気持ちを理解している。そして人の気持ちを理解したうえで、決して八方美人にはならない。好き嫌いがハッキリとしている。 断る人に対してはハッキリと断っている。嫌われることを恐れていない。自分のほうが好き嫌いがハッキリとしているときには、嫌われるのは怖くない。生産的に生きている人たちは、人の好意で自分を守ろうとしていない。自分の力で自分を守ろうとしている。だから嫌われるのは怖くない。 したがってある人には自分から働きかけている。別の人に対しては拒否している。さらに別の人からは逃げる。好かれることが第一にはなっていない。それにもかかわらず、結果的には比較的多くの人から好かれている。 自己実現は「嬉しい」より「楽しい」 自分がない人ほど褒められると嬉しい。そして褒められると嬉しい人ほど批判されることを恐れる。嫌われるのが怖い。とにかく「自分がない」ということが、幸せに生きていくうえでは致命傷である。 褒められようとして無理をするし、批判されはしないかといつもビクビクしている。こんな生活で心安らかなはずがない。自分がないときには、道に迷ってほんとうに苦労し消耗する。 では「自分がある」ようになるためにはどうすればいいのか――まず何よりも「楽しい」ということを探すことである。「楽しい」ということと「嬉しい」ということは違う。「楽しい」ということには他人はかかわっていない。喜びとか「嬉しい」という感情には他人がかかわっている。 自分が好きな絵を描いていれば「楽しい」。人が評価してくれなくても、絵を描いていれば楽しい。野球が好きな人は野球をしていれば「楽しい」。優勝しなくても野球をすることが楽しい。負けても野球ができることで満足する。 野球が好きな人が野球をして勝てば、嬉しいし楽しい。好きなことで優勝すれば、楽しいし嬉しい。しかし野球の好きな人は、負けても楽しい。負けたことは嬉しくはないかもしれないが、好きな野球ができたのだから楽しい。 楽しいことは自分が好きなことをしているときである。人の期待に応えようとして、していることではない。人の期待に応えられなくても楽しいことは楽しい。楽しいことをしているときには、自分の人生を人に見せていない。 自分の人生に楽しいことを見つけられたときに、他人がアンバランスなほど重要ではなくなる。こうして「自分がある」ようになってはじめて他人ともコミュニケーションできる。 「自分がない」状態では他人とコミュニケーションできない。そこにあるのは迎合とか攻撃である。人と話していても、それは心がふれあうコミュニケーションではない。愛情飢餓感がある人は、たいてい楽しみを知らない。自分の生活を人に見せている。 人間関係にはそれぞれ適切な距離感がある 次に「自分がある」人間になるために大切なのは、人間関係の距離感をハッキリとさせることである。とにかく八方美人をやめる。もっと簡潔にいえば、好きな人と嫌いな人をハッキリと分けることである。尊敬する人と軽蔑する人をハッキリと分けることである。 世の中には尊敬できる人ばかりではない。ずるい人がいっぱいいる。人をだます人がたくさんいる。人をだます人は、だましてもだましても、まだまだし足りない。 なかでも自分の手を汚さないで人をだます人が、もっとも質の悪い人である。こういう人を軽蔑することで「自分のある人間」になれる。自己喪失を乗り越えられる。 自分のない人は、だれも軽蔑できない。ただ一人の例外は自分自身である。自分のない人は、自分だけは軽蔑する。自分のない人は、誠実な人も、卑しい人も同じに見てしまう。そして同じ態度で接する。同じように迎合する。 質の悪い人からも、質のよい人からも同じように好かれようとする。だれからも嫌われるのは怖い。自分のない人は相手を軽蔑するのが怖いのである。それは質の悪い人からでも嫌われるのが怖いからである。八方美人というのは、自己蔑視している人である。だから人からの虐待を許してしまう。 どんなにバカにされても、それに抗議ができない。嫌われるのが怖いから、怒りを表さない。自己蔑視がひどくなれば、虐待されても怒りさえ湧いてこない。トコトンひどい扱いを受けても怒りが湧いてこない。それが自己蔑視した八方美人である。 自分をしっかりと持つためには、楽しいことを見つけること、次には尊敬する人と軽蔑する人をハッキリと分けること。決して同じ態度で人と接してはいけない。 他人を喜ばせようとしてはいけない 「自分がある」ということは自分自身の基準を持っているということである。他人の期待に応えようとしているかぎり、プレッシャーはなくならない。メジャーリーガーにとっていちばん重要な資質は何かを書いた『メンタル・タフネス』という本がある。 著者は、選手は他人の期待に応えようと悩んではいけない、自分自身の基準に応えようと努め、他人を喜ばせようとしてはならないと言う。多くの選手は他人がどう見ているかに気をつかうと言う。しかし、そうした選手は偉大な選手になれないと言う。 偉大な選手になるためには、他人の期待に煩わされることはない。このようなことは、なにも野球の選手についてばかり言えることではない。われわれの人生に対する態度として必要なことである。 自分自身の基準を持たない人が「自分のない人」である。「自分のない人」が他人の期待に応えようとし、プレッシャーに負けて自分自身の能力を発揮できない。小さいころから周囲の人の期待に応えようとして生きてきたら、自分自身の基準が持てなくて当たり前である。 いま自分自身の基準がないといって落胆することはない。今日から「私はだれなのか?」を自分に聞きながら自分自身の基準をつくっていけばいい。そしてその基準ができるにしたがって、他人の期待に応えなければというプレッシャーはなくなってくる。 そうなったときが「私はプレッシャーが好きだ」と言えるようになる。『メンタル・タフネス』の著者は勝者の態度として、この「I love pressure」をあげている。こうなったときにはプレッシャーがプレッシャーでなくなっている。 加藤諦三

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