2016年4月18日月曜日

『無償の愛』

☆兵庫県のYさまよりはがきをいただきました

コーギー Nちゃんのようすをお知らせくださいました

このNちゃんは、今年推定10歳

わたしが神戸市北区の実家にて保護活動をしていた際、神戸西警察から引き取った子

当時、神戸西警察で保護し飼い主の迎えが無い、または飼い主やブリーダーなどにわざと棄てられたであろうと予測される子たちがかなり多く、Nちゃんも、そのうちの一頭でした

神戸市の実家では、小型犬は室内と小型犬舎に・・

中型以上は、家の周り全てに保護をしていました

が、それでも、もう場所のスペースがなかったため、兵庫県内の犬の里親さんに預かってもらっていました

ネットに掲載した里親募集をみてYさんが連絡をくださり、あずかりさんのところまで見に行ってもらいました

ご主人に特にとてもなつき、Yさまご一家もNちゃんを喜んで受け入れてくださいました

わりと短期間で里親さんが決まりましたが、あずかりさんがシャンプーや散歩をしてくれました


こういった工夫をしてでも、わたしは、この時期、見送る(見捨てる)ことなく、神戸西警察から、どの犬もどの猫も引き取ってきた

それは、わたし自身もこの、日本という国に生まれて、犬猫の『行政機関による、恐ろしき殺処分』

という問題をまぎれもない事実と受け止め、そして、その事実が、良い事なのか悪いことなのか、

判断し(悪いに決まっています)、では、自分が何をすべきか?・・と


その時、ちょうど前夫と離婚をしてまだ2年ほど

前夫とやっていた自営業で蓄えた貯金を離婚の際にはんぶんこをした

その貯金は・・その時思ったのは、、

こういうお金は、人間の自己中な考えにより殺される動物たちに使えばいい

わたしは、これまで事実を知らず、いや知ろうとせずに生きてきた

その、罪償いだ・・と

保護・里親探しに、神戸三宮でのデモ主催に、神戸・大阪でのパネル展、、明石公園での

「犬猫の里親譲渡会」主催・・など

数年間は、その貯金をつぎ込んで、自分はこれに没頭しよう

と、思いました


それはやはり、自分が生きてきた社会により、『殺される理由などない 殺されることなど許されないのに、殺されまくる動物たち』

この子らを、このまま何もせずに、理屈だけこねて自分の都合のいいように解釈をして自分を、、

何もしない方向に納得させることを自分がする人間であるならば、、、


自分は『人ではない』

そう『人でなし』




そう思ったから


こう思えたのはやはり、、学んだ、学べたから

誰から?


映画「犬と猫と人間と」(元祖)を、飯田監督に製作費を払って映画の作成をお願いした

「わたしのことを知らない、おばあちゃん」

(このおばあちゃんは、映画が完成する前に亡くなりました

それから、この映画に出てきた、山梨県の「犬棄て山」で犬の世話をしていた

「わたしのことを知らない、おっちゃん」

このおっちゃんは確か、、わたしが映画でみた記憶ですが・・・
(流れる映画のワンシーンなので、少し記憶があやふや)


元々犬棄て山の犬の世話をしていた男性が、お金を銀行に借りに来て、、

その相談に乗ったのが映画に出てきたおっちゃん

自分が犬の世話をすることになって、家族に迷惑をかけないように、、

確か、、離婚までして、犬棄て山の犬の世話(何百頭)をかってでた、、と思う

おっちゃんの、カメラに映った、とまどったような顔は今も覚えてる


この映画でわたしが学べた人は、特に、この人たちでした

この人たちは、全く知らないわたしに

『愛をくれた』
って、わたしは思っています


わたしは、他人さんに愛情をもらって生きてきた人間です

親兄弟などの肉親ではない、他人さんに、、

他人さんがくれた

『無償の愛』を受けて、育ちました

『無償の愛』ほど、強いものはない


『無償の愛』を受けた人間だから、動物たちに『無償の愛』向けられる


『銭金ではない 無償の愛』


『差別の無い 無償の愛』


『選ばずに引き取る』のは、わたしにとっては『当たり前のこと』

その、何が悪い? 悪いことなんて、『何にもない』

どの犬も、どの猫も、

『殺処分される理由など、ひとっつも無い』

すべて人間がやったことのせい


犬猫だけではない
他の動物たちも・・みな


行政の人間は、努力しない

行政の人間が努力してきたなら、今頃、殺処分なんてとうになくなってた


その、努力しない行政の人間に何も言ってこなかった、国民の責任は大きい

国民みなが、やらなければならないこと


やって、当たり前のこと

そのはねっ帰りが、国民自らに来ている

やるべきことをやらなかった責任が、国民自らに、返って来るのは当たり前のこと


わたしは、人にも厳しいが、それ以前に、自分に厳しい

努力しない人間は嫌いだ

社会のこと考えずに、『まず自分ていう考えの人間は嫌いだ』


社会のこと、、動物のこととか、もちろん環境のことも、、

考える人とからみたい

つながっていきたい

って、思う


わたしは、他人さんがくれた

『大きな大きな無償の愛』で育った

それはわたしだけではないんだけど、

たぶんなにか・・

生まれ持った感受性の強さと、親に愛されなかったことが、

その

『他人さんがくれた無償の愛』に

大きな学びをもらったんだと思う


少し前にブログで書いた
神戸市西区の『複合産業団地』ができる前のこと

わたしが成長するまでずっと過ごした家から通う

『神戸電鉄 木津駅』

今はその複合団地ができたせいで、機械的な、さみしい駅になってしまったけれど、、


単線無人駅だった『木津駅』に、時々いた神戸電鉄の乗務員の

当時40歳くらいに見えた

いつも優しく話しかけてくれた

とても端正な顔立ちの男の人


神戸市立「藍那幼稚園」に通う二年間の間

木津駅から藍那駅までの一区間約5分の間


毎朝毎朝、、

「満員のぎゅうぎゅう詰め電車は、幼稚園の子は可愛そうやから」



二年間、毎日毎日

幼稚園の子全員(わたしの時は、年少時6人・年長時4人・・)

を、運転手さんの部屋に乗せて運んでくれた

それは、わたしにとっては二年間だけど、神戸電鉄の人たちにとっては、もっと長かったと思う


はしゃいだり、うるさかったこともあったんだと思うけど、、

どの運転手さんからも、怒られたことなんて、一度も記憶にない


愛と学びをくれたから、、

わたしは、『おもいやりと気配り』を身に付けた


小学校から大人になるまで・・

返って来る時、切符を車掌さんが受け取るので


電車に乗る時は、一番後ろに乗る

一番後ろに乗れなかったら、電車が着く前に、電車のなかで一番後ろに移動する

それも出来なかったら、電車を降りて、走って車掌さんに切符を渡しに行く


なぜか?


車掌さんを待たせたら、電車の出発が遅れるから・・

電車の出発が遅れると迷惑かける


電車の前の方で降りて、それでものそのそ歩いていく人がいれば

あきらめて、車掌さんは切符を受け取らずに出発させるしかなかった・・

そういう人がいるのを見ると、とてもいやな気がした


神戸電鉄の会社と人々の愛に

感謝し、今も感謝し続けています

本当に、ありがとうございます


それからもうひとつ

小学校の帰り道・・


木津駅から、少し行って小さい坂を上がるところに住む、

わたしが名前も知らないおばあちゃん


夏場、毎日毎日

『小河(おうご)の子はまだまだ遠いから』



空っぽになった水筒に

毎日毎日


冷たいお茶入れてくれた

優しい優しいおばあちゃん


電車から降りてくるの見はからって

道路までお茶もってきてくれたおばあちゃんに


本当は

中学とか、高校とか、、

まだおばあちゃんが生きていた時に

今みたいな気持ちになれて、

『あのときはありがとう』って

お礼言うのが当たり前だった

って、今から考えたら思う


でも、神戸電鉄の人やおばあちゃんは

「お礼が言って欲しくてしてくれたわけじゃやない」

ただただ、「可哀そうだ」っておもってくれた から


そう、こういうのが

『他人さんがくれる無償の愛』


この愛のおかげで、わたしは育ち、たぶん育つ過程に

自由な校風の鈴蘭台高校に通ったこともあり


こういうふうに生きているんだ

って、思う


はがきのお礼を書いていたら、自然と、、こういうことを書きました

今日書こうと思ったことが変わりました

が、、、


みんなが

助けを求めている動物たちを助けるのが、、

『本当は、本当だ』

って、思う


今からお客さんが来るって電話あったので、ではまた・・


土曜に、アナフィラキシーショックで死ぬかも?と思ったことがあったけど、生きてます

こうやって、いろんなことがからだでわかってくるんだな・・・って、、、






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