2017年6月12日月曜日

『偽ユダヤ』と『本ユダヤ』/『ハルマゲドン』とは?

☆おととい、
ふとんに横になっていて
まだ寝つけないでいる時に

いきなり脳みそに
『ナターシャ』という言葉が降りてきて
そのあとすぐに
『ナタリー』という言葉が口からでました

不思議さと好奇心で
すぐにネットで調べてみると

ナターシャNatashya)とは、英語圏で用いられる女性名である。
ナタリアナターリア)を短縮した言葉、及び称として使われる場合が多い。

で『ナタリア』で調べると・・

ナタリア (Natalia) は、南欧から東欧に掛けて広く見られる女性名。語源は後期ラテン語の「natele domini(主の誕生日=クリスマス」から。異型にナタリー(Natalie/Nathalie:英語、フランス語、ドイツ語)、ナターリャ(Natalya:ロシア語)、ナターリヤ(Nataliya:ウクライナ語)などがある。愛称形(通常用いる短縮形)にはナターシャナータなどがある。

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ということで・・
また
不思議な体験ができました。

女性はみんな
『ナターシャ』『ナタリア』『ナタリー』
なのかもしれないですね。

そして本来はみんなが
『イエス・キリスト』
であるのでしょう。

ネットより2つの記事を転載します

↓一つ目 記事

イルミナティP2ロッジのレオ・ザガミがなぜイルミナティが日本を標的にするか明らかにした。

それは、日本が神の国だからだ。

参考記事;アトランティス(レオ・ザガミによると、イルミナティの本当の歴史は、古代アトランティス文明時代を起源にしていると言う)~そういうことですからゆっくりお読みください


中丸女史による質問
「 なぜ、あなた方イルミナティ・闇の権力者たちは、私たちの国・日本と日本国民を、3・11 の大津波、大震災のような人工兵器という無差別な方法で攻撃したのか? 」



レオ・ザガミの回答
「 もちろん、日本という国をこの地球上から抹殺する目的だった。 イルミナティ最上層部は、日本という国は、『神の国』として認識している。何としても、我々の目的 の完全遂行のためには、まず、 『日本の国』をこの地上から消滅させなければならない。日本は今まで、 我々の新世界統一秩序の遂行をくじいてきた稀有な国である。 今まで世界の歴史の約150年間、我々の計画の前に、日本はことごとく立ちはだかってきたからである 」

(※レオ・ザガミによると、イルミナティの本当の歴史は、古代アトランティス文明時代を起源にしていると言う。そしてベンジャミン・フルフォード氏によると、イルミナティは2万6千年間の時を脚本通り演出し、2012年12月21日(日本時間22日)に計画は終了すると「地震兵器・気象兵器・HAARP・ケムトレイル」と言う本で書いている)

じゃあ、どうして日本は神の国なのか。

裏イスラエルだからだ。

人知れず守られてきたイスラエル。

日本はイエス・キリストの国であり、それゆえイルミナティが消し去りたい国なのだ。

311は、3発の爆発によって引き起こされたと考えられる。

3回の巨大地震が立て続けに起きた。

そして、3号機は、3回の爆発によって破壊された。

おそらく、モサドのマグナBSP社の監視カメラという名の小型核爆弾によって爆破されたのだろう。

なぜ3回?

イルミナティが3回にこだわるのは、それがイエスを磔刑にしたくぎ打ちの数だからだ。

両手と足に3つの釘が使われた。

太平洋戦争では、広島、長崎への核攻撃、そして、東京大空襲。

3回の破壊で日本を叩き潰そうとした。

しかし、戦後、日本は復活し、逆にイルミナティ米国よりも強くなりそうになった。

1985年のプラザ合意から為替とバブルによって日本経済をダメにしようとしてきた。

1991年ごろにバブルがはじけ、免疫があったおかげで、日本は、サブプライムローン詐欺にひっからず、今深刻な経済的ダメージを回避できている。

結局のところ、日本が世界で独り勝ちしている。

日本はイエス・キリストの国なので、滅ぼすことができないのだ。

逆に強くなって復活する。

日本人は、ぜひ、真名井・伊雑宮ラインを理解し、この国がイエス・キリストの国であることを悟ってほしい。

そして、イルミナティに勝利できるのはわれわれだけだということを悟り、イルミナティが崩壊するように祈ってほしい。


日本の本質を示す真名井・伊雑宮ライン

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真名井神社から伊雑宮に至るラインは、日本という国の本質中の本質である。

1.真名井神社=六芒星

2.籠神社=茅の輪と天橋立=紅海を渡って出エジプト

3.外宮=マナの壺とモーセの青銅の蛇=約束のキリスト

4.内宮=十字架と契約の箱=キリストの贖いの成就

5.伊雑宮=六芒星、伊蘓=天地の仲介者の復活

大嘗祭は、このラインに沿った儀式である。

1.聖水沐浴=紅海を渡る=洗礼・・・・真名井・籠神社

2.神人共食=マナを食べる=聖餐・・・真名井・籠神社・外宮 (*)

3.御衾秘儀=十字架と復活=献身・・・内宮・伊雑宮

皇太子は、イスラエルとキリストの歩みを再現した儀式を通じて天皇になるということは、天皇のご存在と日本という国の本質が、キリストの救いを示しているということになる。

(*)「籠神社の宮司海部氏の記録によると「籠神社」及び奥宮「天真名井神社」(真名井神社の正式名)には代々、神宝の壷という壺が伝わり、宮司の交代期に密儀として神宝の壷「黄金の壺」が受け継がれているらしい。」


神道を多神教と誤解している人がいるが、表は裏を隠すための偽装である。

裏神道は一神教である。

籠神社の先代宮司・海部穀定氏は、『元初の最高神と大和朝廷の始原』という書の中で、「神道の本質は、多神教ではなく、唯一絶対神信仰だ」と解いているようで、元初の大神こそ、古事記冒頭の「天御中主神」と述べているようだ。


しかも、今の宮司は、はっきりと籠神社の神はユダヤの神であると言っている。

そして、「伊勢神宮はこのことを秘密にしている」とも言われた。

しかし、これも時が来るまでの間のこと。

いつまでも神道側が秘密にするはずはない。

事実八咫烏は、「こちら側から明かすことはできないので、一般側から明かす人が出てくるのを待っている」と言った。

ついにわれわれはここまで来た!

ぜひ多くの日本人がこの理解に達するように祈る。

日本の本質は裏イスラエル

イスラエルの出エジプトは、北東に向かった。エジプトからイスラエルまで、北東方向に向かって進んだ。

しかし、日本の出エジプトは、南西に向かった。籠神社から伊勢神宮まで。

これは、日本が裏イスラエルであることを暗示している。

表と裏、陰と陽。

イスラエルの場合、六芒星は公になっている。

大々的に国旗に、建物の表面に記されている。

日本の場合、六芒星は籠神社の奥宮真名井神社に、そして、伊雑宮の裏紋として、いわば隠れた印として記されている。

明治天皇の孫小林隆俊牧師によると、六芒星は、内宮の奥にもあるという。(また、内宮には「我は有りて在る者なり」との御名が書かれた板があるとも。)

世界の人々は、イスラエルの歴史について聖書から学んでいる。

しかし、日本に六芒星があることは知らない。

世の人は、表だけを見ているが、誰も知らない裏がある。

もし昔から日本に聖書があり、イスラエルのようにトーラーが学ばれていれば、世界の人々はすぐに気づくだろう。日本がイスラエルの失われた部族であることを、そして、キリスト教国でもあることを。

しかし、神は、日本から聖書を隠された。

その代わりに、籠神社から伊雑宮まで、六芒星と六芒星をつなぐ一本のラインにおいてそれを伝えられた。

真名井神社→籠神社→外宮→内宮→天岩戸→伊雑宮

これは、六芒星で結ばれたライン。

出エジプトから復活までの聖書の物語が暗示されたライン。

(2)
イスラエルは、「紅い海」を渡り契約の民となった。血による贖いを象徴。

日本では、天橋立がこれを表す。そして、籠神社では、茅の輪くぐりが行われる。茅の輪は、「血の輪」。


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鳥居とは本来、茅の輪なのだ。紅海を渡るのと同じ意味がある。

ちなみに相撲で締める回しは、この茅の輪である。(蘇民将来は速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗る神から、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると告げられる。Wikipedia―蘇民将来)

だから、相撲取りは、血によって贖われた民、契約の民を表す。

(3)
皇太子が天皇になる場合、大嘗祭において、麁服(あらたえ)を着るが、これは、死装束だという。


これを着て御衾に臥すということは、すなわち、天照大神の死と復活をなぞること。

その前の儀式で、湯帷子を着て水に入り、それを脱いで新しい湯帷子に着替えてから水から出てくる。

これは、明らかに洗礼である。

イスラエルが紅海を渡ったのと同じように、キリストも洗礼を受けられ、そして、天皇も洗礼を受けられる。

イエス・キリストが世界の統治者として立つためには、一度死んで復活しなければならなかったのと同じように、日本を統治するために、天皇は、死装束を着て一度死んで、復活する必要がある。

だから、この御衾に臥す儀式は、統治者としての献身式なのだ。(*)

(4)
伊勢神宮とは、「イエス神宮」である。

天皇は、伊勢神宮の神天照大神から権威を与えられた代理統治者である。

大嘗祭において、天皇は、天照大神(=イエス)がたどった真名井神社から伊雑宮(=出エジプトから復活)までの過程を繰り返す。

日本の本質は、裏イスラエル、つまり、真のイスラエル、つまり、クリスチャンである。

もちろん統治者といっても、普通のノンクリスチャンの立憲君主としてではない。

キリストの権威を帯びたクリスチャンとしての統治者である。

だから、天皇の主要な務めは、祈りと儀式なのだ。


ニーチェ Nietzsche
「カトリック教とキリスト教」

(『文読む月日』(中)より抜粋)

歴史的事実としてのキリスト教と、

それが発生した起源とを
混同してはならない。

現在 ”カトリックの信仰”
と呼ばれているものを
神聖なものにするには、

ただただ比類なき
厚顔無恥が必要である。

キリストは 何を否定したか?

まさに 現在
カトリック教会 と呼ばれている
ところのものにほかならない。


カトリック教会 それはまさに
キリスト教の根本原理と
まっこうから対立するものである。

まさに
カトリック教会的意味における
キリスト教的なものこそ、
根源的な意味において
非キリスト教的なのである。

一定の信条の代わりに、
教会にあるのは
物であり、人である。

永遠なるものの代わりに
歴史があり、

実践的生活の代わりに
カトリック的規則や
儀式やドグマがある。

キリスト教は 本質的には、
祭祀(さいし)や僧侶や
教会や神学とは
無関係なのである。


キリスト教の実践のためには、
なんらの幻想をも必要としない。

それは
幸福になるための手段である。

「他人と身内とを
区別してはならない。
怒ってはならないし、
何人(なんびと=いかなる人)も
軽蔑してはならない。

慈善は
ひそかに行わねばならない。
誓ってはいけない。
裁判してはいけない。

何人とも和解し、
これを赦(ゆる)さねばならない。

祈るときは、
ひそかな場所で
祈らなければならない」

イエスは 直接に物事の本質を、つまりは 人の心のなかの”神の国”を見つめ、その神の国に至る道を示しているが、

それは彼が認めていないユダヤの教会の掟(おきて)の遵守(じゅんしゅ)といった外面的な道ではなくて、内面的な道であった。

彼は外面的なものについては考えず、内面的なものに思いを致したのである。

神との交流と称する欺瞞(ぎまん)に満ちた手口に対しても、彼は同じような態度で臨(のぞ)んでいる。

彼は、自分を”神の性を帯びる者”と感じるにはいかに生くべきかを説き、苦行(くぎょう)によって その状態に達することはできないと考え、神性を帯びるためには 何よりも自己棄却が大事、と教えた。


カトリック教は、キリストが行ったことと、行わんと欲したことと 根本的に食い違っている。

キリスト教は 本来 大きな反異教的な運動であるが、しかしその教えは、つまりキリストの言行は、キリスト教とまったく無縁な目的のために、すっかり勝手な解釈を施され、その後 既成の諸宗教の言葉に翻訳されてしまった。



カトリック教はキリスト教から、結局は 国家と妥協するところの教え、戦争を行ない、裁判をし、拷問を行ない、誓い、憎悪する教えを作り上げたのである。

カトリック教にとっては、
責任とか罪とかいった観念を
第一番に持ちださねばならず、

キリストの教えによる
新しい生活が必要ではなくて、
新しい礼拝の形式や、
奇跡的変容
(信ずることによる贖罪)
に対する新しき信仰が必要なのである。

カトリック教は、
キリストの生と死の歴史から
実に自分勝手な選択を行ない、
至るところ重心を置き換えて、
何もかも自分流の解釈をした。

一言で言えば、

原始キリスト教を すっかり
滅ぼしてしまったのである。


異教やユダヤ教の僧侶および教会との闘いは、
カトリック教のおかげで
新しい僧侶や神学の教えに、
新しい支配階級に-- つまりは
またぞろ教会に舞い戻っていった。

ここにユーモアが、悲劇的ユーモアのすべてがある。

カトリック教は 総体的に キリストが滅ぼしたものを再び復活させた。

そして結局 新しいカトリック教会ができあがったとき、それは 国家すらも その庇護(ひご)下に置くようになった。

カトリック教とは、まさに キリストがまっこうから否定したもの、使徒たちに向かって、それと闘えと教えたものなのである。

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2つ目記事

『ハルマゲドン』とは?
ネットより


このサイトのテーマである「ハルマゲドン」
それは光(神)と闇(悪魔)の最終戦争である。
それを回避する方法は1つしか存在しない。
それは、原因の世界、即ち自己の内面に目を向ける事である。

『日月神示』には次のように示されている。

「戦恐れてゐるが、臣民の戦位、何が怖いのぞ。
それより己の心に巣くうている悪のみたまが怖いぞ」


「戦は今年中と言っゐるが、そんなちょこい戦ではない。
世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。
臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、
ニクと肉、タマと魂のいくさぞ」


「己の心を見よ、戦が済んでいないであろ。
それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ。
早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一」


外部の世界は内部の世界の現れである。
本当のハルマゲドンは、真我(神)と自我(悪魔)の戦いなのだ。

イエスは、「天の国は汝の胸の中にある」と説いた。
即ち、天の岩戸は人間の胸にあり・・・
岩戸を開いて真我に目覚める事を「キリストの再臨」という。

私(キリスト)は岩戸の中からノックして、あなた方に呼び掛けている者である。
しかし、あなた方が気づかない為、私は岩戸の破壊者「反キリスト」となった。

「ヨハネによる福音書」第3章で、イエスはこう言っている。

「はっきり言っておく。
人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」

「『あなたがたは新たに生まれねばならない』
とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者も皆そのとおりである」


古代キリスト教の神学者アウグスティヌスとは、こう言っている。
「人間は自分自身の中にあるものを知らないが、
人間の創造者は人間自身の中にあるものを知っておられる」

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